2006年06月20日

蟲師第26話「草を踏む音」

 …最後の最後でやっちまいました。
 家族がうっかり主電源を落としてしまって、生き延びたのは最初の1分と気付いて再立ち上げした後の最後の5分…(;;えーい、こうなったらイチかバチかでアフタヌーンの上映会に申し込んでみるか。

 何も最後にこんな目に遭わなくても。不運だ。

 まあ、冒頭の1分見ただけでも、霧の描写のすごさには肌が粟立ちましたよ。何でこんなすごいアニメがこれで終わってしまうかなあ。まあ、あまりにも大変、というのはあるのであまり無理はいえませんが。

 だからこそ、「またすぐにお会いしましょう」という感じのEDはよかった。もうないんだろうと思っていた予告の和紙もちゃんとあったのはうれしかったし。うん、こうやってこの先も続いていくんだねと感じさせる幕切れだったと思います。

 この先も、半年ぐらい置いて6本ぐらいずつのミニシリーズをコツコツと発表していってもらえるとうれしいかな。何よりもオリジナルエピソードが見たいなあ。このスタッフで熱意を込めてオリジナルな話をつむぎ出した時、何が見えるのかと思うとワクワクする。

 まさしく歴史に残る傑作だと思います。長濱監督以下スタッフの皆様、おつかれさまでした。そう遠くない日に再会できることを楽しみにしております。
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2006年06月12日

蟲師第25話「眼福眼禍」

 眼に寄生する蟲の話。当然、誰もが第2話のマナコノヤミムシを思い出すと思いますが、今回はちょっと違う。盲目の人が「見えすぎる」ようになる話だから。このあたりは、結構「絶対少年」の時に調べた話なので、ちょっといろいろ言いたいことがあります(笑)

 山口真美著「視覚世界の謎に迫る」(講談社ブルーバックス)

 「絶対少年」2周目のテキストとして使わせていただきましたので、詳しくはそちらを見ていただきたいのですが、要は、「盲人が始めて視覚を得たとき、うまく像を結ぶことができない」ということ。今まで視覚を知らなかった脳がいきなり外の景色を見たとしても、「ただまぶしく見えるだけ」で、ある程度修練を積まなければ外の風景を認識することができない。

 つまり今回の話は「まちがい」だといいたいのかというと別にそうではありません。というか、上で述べた話は漆原氏も知っているふしがある。

 最初に眼福が眼に飛び込んできたとき、周が「まぶしいだけでぼんやりとした光しか見えない」という描写がちゃんとあるからです。ところが、この後急速に「見える」ようになっていく。つまり、宿主の目に飛び込んだ眼福は、すばやく幹機能を奪うということなのでしょう。

 要するに見ているのは眼福であって宿主ではない。宿主は、眼福の得た視覚情報を一時的に共有しているだけなのです。

 ならばどんどん見える距離が伸びていき、最後には未来まで見えるというのをどう解釈するか。ファンタジーとして触れずにおくこともアリですが、そこをあえて解釈してみる(笑)

 原作でもアニメ版でも触れられていませんが、眼福は個体ではなく、群体の蟲と仮定してみましょう。目玉はいわばコロニーであり、そこから微細な個体の蟲が外に行き来している。もちろん目に見えないほど小さいので、移動速度は大変に速い。それで、個体が外まで出かけて捕捉してきた視覚情報をツバメがエサを巣に持ち帰るようにして貯めこんでいる。もちろん宿主の都合など蟲は知ったことではないからどんどんランダムに情報が流れ込んできて、宿主を混乱させることになるわけです。

 そして目玉を乗っ取る領域が増えていくにしたがって、認識できる空間は拡大していき、しまいには時間の領域にまで乗り出していく。なぜそんなことが可能なのかというと、単体の蟲が十分に微細だから。要するに「光の粒」を外で捕まえて目に持ち帰っているのだと思う。だから、光の粒を捉える、すなわち「観測」した瞬間に「決定」してしまう。「量子論」の理屈ですね(またかと言わないように)。だからこそ、周が見た未来の光景は、決して変えることができなかったんではないでしょうか。既に「観測」を終えてしまった出来事だから。

 とまあ、そんな風にSF的解釈もできるのが今回のエピソードの面白さ。ただ、それにしても非常に辛い話ですよね。ギンコも精一杯運命に抗ってはみたけれど、結局変えることはできなかったわけだから。

 あと1回。うーん。さみしいなあ。「アフタヌーン」が21-26話の上映会を全国でやるらしいけど行ってみようかな。どうせなら未放映のオリジナルエピソードもやればいいのに。って、言うのは簡単ですけどね。
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2006年06月06日

蟲師第24話「篝野行」

 どう読むんだ、ってまず悩みましたよ。そうか、「かがりのこう」かぁ。いや、先週の予告で読み上げてるんですけどね。一週間もたつと、すっかり忘れてしまってますんで。ああ、もう年だ(^^;日本語に対してまだまだ学がないと反省しきりですよ。

 今回は「火」が主題のエピソード。水だの光だの土だのと、いろいろなテーマでつないできたこの作品ですが、意外にも「火」が主人公な作品は今回が初めてではないかな。「枕小路」のクライマックスの野火が印象的だったぐらいで。今回はただの「火」ではなく「火」に擬態する「陰火」というひねり方がすごい。毎回よく考えるもんです。

 原作では白っぽくフワフワした人魂みたいな描き方でしたが、アニメでは色をつけなけばならない。それでどうするんだろうと思っていたら、緑がかった青色の、まさしく「冷たい火」というしかないものが出来上がっていたのには驚嘆。これはまさしくアニメ版の手柄でしょう。見たところいかにもひんやりと冷たそうで、でもまぎれもない火。この動き方と色を決定するには相当に苦労したことでしょうが、その甲斐はあったと思います。

 今回はライフサイクルについての物語でもあります。生き物の生態系をよく知らないままお手軽に駆除しにかかると、痛烈なしっぺ返しを受ける。ぴったりの例はなかなか思いつかないのですが、そうですねーハブ駆除のために沖縄に持ち込まれたマングースによる生態破壊って有名ですよね。
 確かにマングースはハブを食べる。ならばマングースを持ち込めばハブをじゃんじゃん食ってくれるだろう、と考えた人間は残念ながら甘かった。今となっては笑い話のようなエピソードですが、ハブは夜行性。これに対してマングースは昼行性。二種の間にフラグの立つ出会いはありませんでした(笑)そんなことも考えずに移入したのかと考えの浅さにはあきれるばかりですが。むしろマングースの餌食になったのは、ヤンバルクイナとかアマミノクロウサギとか、減ってもらっては困る絶滅危惧種ばかり。目下、マングースの捕獲が懸命に行われているそうですが、いささか間違いに気付くのが遅すぎた。

 今回の主人公である野萩は極めて理性的で見識の高い蟲師でしたが、それでも間違えるときは間違ってしまう。それだけ自然を相手にすることの難しさを感じさせるエピソードだったと思います。本当、重厚で存在感たっぷり。いいキャラでした。

 ちなみにウェヴ上で「生態系」と「駆除」で検索すると、ヒットするページの多くは、ブラックバスの駆除に反対する釣り人のページ。一見、もっともらしく理性的に見える理屈ですけど、そもそもそこにいないはずの魚を釣りたいという手前勝手な欲望で放流したのは釣り人のほうですよね。その段階ですでに生態系に対する負荷はかかっている。ならばその負荷は取り除いてやるのが正解でしょうね。さっきのハブとマングースのエピソードになぞらえるならば、ブラックバスは間違いなく「マングース」のほうです。
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2006年05月30日

蟲師第23話「錆の鳴く聲」

 何かもっと陰惨な話だった記憶があるのですが、結構結末はさわやかでしたね。まあ、村八部にされる主人公の家族はかなり悲惨なんですが。

 それにしても毎回言ってることなんですが、この執念に満ちた描きこみはすごい。田舎生活経験者をも納得させてしまう手触りのリアル。田舎でファンタジーを成立させるためには、いろいろとリアルな描きこみが必要。それが面倒くさいというのなら題材にする資格などない。背景に田んぼと山川が描かれていればいいだろうという安直な姿勢で演出に挑む作り手は万死に値します。「ひぐらしの鳴く頃に」スタッフは、猛省すべし。

 まあそういうダメアニメは放っておいて。今回は特定の周波数の「音」についての物語。「錆」と「音」の結びつけは意外なようですが、実際に虫避けや特定の虫を吸引するために音を使う除虫器具は割と一般的。

 夏の名物・蚊の場合、吸血するのはメスだけなので、オスの蚊の羽音の周波数を発してメスの蚊を追い払おうという装置が実際にあるようです。メスはオスの羽音に引き寄せられそうな気がするんだけど。なんで遠ざかるのかは不明。

 http://store.yahoo.co.jp/chinya/c4b6b2bbc7.html

 結構自作している人もいたりして。設計図をネットで公開したりしているので、割と思いつきやすいアイデアなのかもしれません。ただ、効果については疑問を提示している人も多い。まあ、蚊には実際にどんな風に聞こえているのやら分かりゃしませんしね。

 ただ、音によって影響を及ぼすこともある。このあたりが今回の発想の原点なのでしょうか。見た目はどうみても「流行り病」なのですが、実は本質は現れ出ることがない音によって影響が現れる、という巧妙さは大きな驚きをもたらしてくれます。錆がズルズルと散っていくさまはかなりインパクトがある。このあたりはまさしくアニメ表現ならでは。

 逆に言うと「錆」にこだわっているうちは本質が見えない。実際には何が起きているのか、「関係性」と「構造」を理解しなければ、解決はおぼつかない。そのあたり、結構この作品も「科学的思考」に基づいているのでは、なんてことを思ったりしました。

 ほぼ文句のないできばえであることは議論の余地のないこの作品ですが、今回の「テツ」の演技は少々痛かった気も…ちょっと珍しいですね、「蟲師」ともあろうものが。
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2006年05月23日

蟲師第22話「沖つ宮」

 アニメ版後半に配置された作品は、SF性豊かで壮大な作品が多いのですが。今回はまさしくその最たるものですね。発想の源泉はおそらくヒトクローンと代理母出産の問題。

 「SFとしては想定の範囲内」としておられる方もいましたけど、いや、それはどうかな。SF読みとしては、蟲の正体が

「生き物の時間を食べる存在だった」

というアイデアはまさしく絶妙の離れ業に感じられましたよ。クローンの方に目が向いてしまっていただけにね。「産み直し」の着想自体は原作でも印象的だったのでよく覚えていたのですが、「生き物の時間を食べる」という隠し味的アイデアは、きれいさっぱり忘れてしまっていました。たぶん、アニメ版の方が、アイデアにうまく肉づけしているぶん、強く印象に残るということなのでしょうが。

 何といっても、ラスト近くの蟲の襲撃シーンの恐ろしさは圧巻です。海の深遠から海草のような触手がスーッと上がってきて巻きつくイメージは実に強烈で、夢に見そう。

 実は子供のころ、田舎の祖父の家で、庭にある池に落ちたことがあります。家族が見ている目の前でのことだったので、すぐ引き上げてもらえたのですが、口からゴボゴボと空気がもれていき、頭に水草がからまり、目の前を魚がゆっくりと泳ぎ過ぎていくのが見える。
「あー今溺れてるんだなあ」
とまるで他人ごとのようにぼんやりと考えながら沈んでいく。そんな感じでした。

 本当に驚くのですが、今回のエピソードでギンコが海底に引き込まれていくときの描写とほぼそっくり同じなのです。これはどういうことなのか。ひょっとして、長濱監督は溺れた経験があるんだろうか、本当にそう勘ぐってしまうほどリアルな描写でした。

 今回のラスト6話、暗めの話が多いのですが、壮大なイメージを抱えさわやかな気分で見終えることができる「沖つ宮」、とても貴重でした。

 それにしても、ギンコが産み直されたら、どこまで遡るんでしょうね。どちらの姿で転生するのやら。その部分も含めて、本人の言っている通り「悪い冗談」かもしれません。
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2006年05月16日

蟲師第21話「綿胞子」

 というわけでひさびさの蟲師。今回はハイビジョンですので、そのクオリティはすばらしいのひとこと。

 それにしてもげんなりするほど暗い話ではありますが。ただ今回は、「託卵」をされる側から描いてみたら、という話なのですね。見ていて気付いた。そう考えるとなかなか興味深い展開ではありました。

 まだ書きたいことはあるけど、また数日家を空けるので、後ほど書き足します。次の更新はまたまた木曜日、ですね。しばしお待ちを。

帰宅しましたので18日追記。

 今回のテーマは間違いなく「託卵」でしょう。ご存じでしょうが、ひながすりかわることで他種の鳥に子育てをさせるカッコウなどの特異な習性のこと。「綿胞子」の発送のおおもとになっているのは間違いありません。

 われわれは人間の価値観で、どうしてもカッコウの「託卵」をズルい、と批判的な眼で見てしまいがちなのですが、自然界に人間の価値観を押しつけるのはまったくの傲慢。自然の「淘汰圧」は、他の生き物が目を向けないところ、競争相手が少ないところに向かうものですし、他の生き物の特性を逆手に取った戦略を選択した生き物が栄えるのは当然の帰結。悪意がなく、ただ生きようとして寄生主として人間を選んだだけ、という点で綿胞子も同じ、という観点は、漆原氏の自然観をよく示しているといえそうです。

 カッコウはオオヨシキリなどの巣に託卵するわけですが、くちばしの中が紅くなっており、これがなぜかオオヨシキリの親の給餌意欲を高めるらしい。カッコウの雛はオオヨシキリの成鳥よりもはるかに大きいのですが、オオヨシキリは雛を大きさで区別するわけではないので、自分より大きな雛にせっせと餌を運ぶという、人間から見るときわめて滑稽な構図が生まれてしまいます。

 でも、人間の特性を利用した託卵をする生き物がもしいたとしたら、我々もオオヨシキリのことを笑うことはできないはず。本当の自分の子供ではない、と理性ではわかっていても、自分の姿に似たものには情を注いでしまうのが人間というものなのですから。

 ただ、危険なものだとわかっていても、好奇心から殺さずに様子をうかがったり、サンプルとして採取したりしてしまうのが、人間の特異な性質といえるかもしれません。その点では、ギンコも依頼者夫婦と変わらないということなのでしょう。ただ、特異性をよく自覚している、という点でギンコは蟲を扱う資格を持った人間、といえるのかもしれませんが。
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2006年03月19日

蟲師第20話「筆の海」

 ついに、とうとうこの日がやって来ました。これにてしばしのお別れ。寂しいですねーBSデジタル加入することもできるけど、そこまでする意味があるのかどうか。他に見るべき番組がなにもないからね。とりあえずDVDは必ず買うつもり。

 アニメに何ができるか?というのは昔から変わらぬ問いだけど、この作品は確かにアニメ(アニメーションでなくて)にしかできない表現の可能性を付け加えることができた気がします。その制作作業は壮絶にして苛烈なものであったであろうことが推測されますが、今回の挑戦で蓄積されたスキルは必ず次に生かすことができるはず。そういう意味では、ぜひとも第2シーズンを立ち上げていただきたい。長濱監督やる気十分なようなので、期待しています。まあ、次はフジ系はやめた方がいいですね(^^;

 とはいえ今回の全エピソードを終えると、残る未アニメ化作品はたったの10本ということになってしまう。その中には、私がぜひとも見たい「野末の宴」「棘のみち」があるんですけどね。次回はぜひオリジナルに挑戦していただきたいところ。

 さて、そんな中で長濱監督自ら「一番好き」と公言し、ここまで「取っておかれた」TV版最終話「筆の海」。

 やはり気合は相当なものがあり、登場人物の一挙手一投足に緻密なこだわりが感じられました。そのぶん、狩房文庫の扉を開く最初のシーン、CGの張り付け画像みたいに軽い感じの木戸の動きにはちょっと「あれ?」という感じ。たぶん演出の修正ミスでしょうね。DVDではなおるとよいのですが。この作品では珍しい瑕疵でした。他が完璧であっただけに、いかにも残念。

 他の点では特に言うこともないほど完璧ですよ。淡幽のカリスマたっぷりな声はお見事。配役を心配していたこちらの不明を恥じたくなるほどで。いや間違いなく堂々たる「狩房家当主」だなあ。

 他ブログでも指摘しておられる通り、CGの適切な使い方はお見事という他ありません。巻物からあふれ出た字が壁を這い回り、箸でつまみあげては巻物に戻していくという表現。CGの強みを生かしきりしかも弱点を見せない。原作はある程度読者の想像力にゆだねる描き方をしていたけど、アニメ版の緻密な表現を見ると、「カット&ペースト」というパソコン文化を思い出してしまうのが面白いところです。

 アニメ版は原作と違ってすべてを見せている。でもそれで想像力が逃げていかず、新たな衝撃力を生み出しているのがすごい。これは意図したことかどうか分からないけど、第1話「緑の座」で紙から文字が逃げていくところからスタートし、第20話「筆の海」で文字を紙の中に戻して終わる。

 シリーズとしてはまだ続いていくんだけど、テレビ版としてそれはそれでひとまとまりになって完結した構造を持っている巧妙さには脱帽。こうなると第26話はどういう形で着地することになるのか。期待して待つこととしましょうか。 
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2006年03月13日

蟲師第19話「天辺の糸」

 名古屋広島だけ放送続行、という話はやはり甘かったようで。ただ単に放送局としての更新作業が遅れていただけなのね。あっさり全局20話で終了です。どうせなら、地方だけでも続行してくれればうれしかったんだけどなあ。

 まあ、それはさておき、騒がしい世俗に惑わされることなく、淡々とペースを守り続ける「蟲師」の世界。相変わらずすばらしい。

 原作では、「花嫁のいない結婚式」の部分だけ覚えていたのですが、アニメ版で一番強烈だったのは、蟲にスーッと吊り上げられて、ポーンと空に向けて飛んでいくシーン。わらじだけがポトッと落ちてくるシーンなんて、なんともいえない怖さがありました。不条理な自然と隣り合わせに住むというのは、そういうことなんだろうなあ。このあたりは、まさしくアニメならではの強みを生かした表現。人が空高く投げ上げられるところも、空の彼方からわらじが降ってくるところも、誰も見たことがないはずなのに、なぜか納得させられてしまう。これこそがアニメのマジック

 それにしても地主の若旦那・清志朗の趣味が「天文」というのは珍しい。江戸時代からそのまま持ち越されたような望遠鏡のデザインといい、特異な雰囲気を演出していました。

 江戸期の天文方といえばすぐ思い出すのが渋川春海。若旦那が書いている天文図も渋川の残した記録の雰囲気によく似てます。現在では春海は、囲碁棋士としての方が有名なようですけどね。

 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B8%8B%E5%B7%9D%E6%98%A5%E6%B5%B7

春海の書いたものではありませんが、作品中の雰囲気によく似た天文図を発見したので、リンクしておきます。

http://library.nao.ac.jp/kichou/open/020/picture/Light/Ten2002_M.jpg

 春海もそうですが、江戸時代の天文学が何のために行われていたのかというとれっきとした実学。暦を計測するためだったんですね。そういう意味では地主の息子にとって決して無関係な道楽などではなかったはずですが、清志朗、特に自分の学んだことを地域に還元する気もなかったようで、嬉々としてオタクに徹してます(^^;

それでも無駄なことなんて何もない。学んだことはいつか何らかの形で生かすことができる、そういう思いが今回のエピソードの底流に流れている気がします。ギンコから「助けられるのはお前しかいない」といわれても途方にくれていた清志朗ですが、いつものように星を見ていて、ハッと気付く。「見えなくても消えたわけではない、ちゃんとそこにいる」のだということに。

 「見えない花嫁との結婚式」、それに続く「共同生活」というのは、実は伝統的な神事などでもよく見られるパターンなんだけど、うまくそこから形だけ借り入れて、「ゆっくりと実体を取り戻していく彼女」に説得力を持たせているのはさすが。漆原氏の豊富な知識、そしてそれを最大限に生かしきったアニメスタッフに乾杯。
posted by てんちょ at 23:04| 大阪 ????| Comment(2) | TrackBack(27) | 蟲師 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年03月05日

蟲師第18話「山抱く衣」

 「蟲師」の原作はマンガだし、絵を駆使した表現なのですが、不思議なことに絵描きの世界を舞台にするのはこれが初めて。親の反対を押し切って郷里を飛び出し、姉の密かな応援を頼りに弟子入りして奮闘。ふとしたことから才能を見いだされ、死にものぐるいで絵を描き続けて名声を得たものの、久しぶりに帰郷してみると土砂崩れで親も姉も死んでいた…という割とよくありそうな話。マンガ家の世界に置き換えてみると、けっこうリアルに感じられます。

 骨組みはあくまで一青年画家の成功&転落&再生ストーリー。天分の才能と努力のおかげで若くして成功をつかんだものの、過労がたたって身体も壊し、スランプに。田舎に戻ってみれば、悲劇に遭遇、しかしそれでも自分の郷里の暮らしの中で、少しずつ精気を取り戻していく…とありそうです、そんなマンガ家(^^;。

 その一方で蟲をめぐるエピソードは底流を形成し、すべての表層の物語をつなぐ形で最後に立ち現れてくる。凡庸なマンガ家なら、青年画家の物語を自伝風に仕上げてしまうところでしょうが、あくまで一歩引いたところから淡々と逸話を積み上げていく漆原氏のクールなタッチは、さすがと言うほかありません。

 アニメ版も、OPなしにいきなりギンコと古物商の会話から入り、主人公・塊の「過去」「現在」が複雑に組み合わされている構成は実に巧み。その3つの話をまとめあげるのが、「蟲入りの衣」ってわけですか。よくできた現代文学みたい。イタリアのイタロ・カルヴィーノかディーノ・ブッツアーティあたりが書きそうです(^^;。
 よく考えたら、ギンコと塊が顔を合わせるのは最後の一瞬だけ。ここまで積み上げてきたものがあるからこそできる構成ですよね、こういうのは。

 そういうみんなが抱くであろう感想とはまた別に、日本画の世界について、あれこれ考えてしまったのが今回のエピソード。伊藤若冲との遭遇以来、日本画の面白さにもはまりこんでいる昨今。原作と違ってアニメ版は日本画ならではの筆や顔料、絵の具皿といった画材を克明に描き出しています。そうなるとどうしても、「日本画」という特異な世界のことについて考えざるを得ないわけで。日本画といってもいろいろありますが、塊が師事した師匠は、南画系の人なのかな?でも微妙にタッチが独特です。
 明治以降の日本画は、油絵との遭遇によって伝統的な「線」の表現を捨て、絵の具を油絵的に塗り重ねることによって立体感を表現する方向へ進んでいくわけですが、「蟲師」の世界のように、近代西洋との接触がないまま、独自の発展をとげていった場合、日本画はどういうことになるんだろう?

 本来、日本画は厳格な徒弟制社会で、絵を学ぶといっても、お手本の絵をひたすら模写する書道教室のような世界。手っ取り早く見栄えのする画像を作り出す技術は習得できるものの、独創性は生まれにくい。それでもいつの時代にもそれにあき足りない人はいるもので、後世に名を残している多くは、若冲・北斎といった在野の画家たちでした。

 日本画はとうとう遠近法を完成できないまま西洋画と遭遇し、

「立体的に描く方法がある!」

 とばかりにそれに反射的に飛びついてしまったわけですが、本来、日本画には日本画にふさわしい空間表現があるはず。若冲が「お手本模写」にあきたらず庭に大量の鶏を放して毎日飽きもせずそれを眺め、CG風の超現実的鶏を描いてしまったように、塊もこれから真に独創的な表現を生み出すことができるかもしれない。郷里に暮らし、郷里の山を描き続けることによって。

 そんなことを感じさせる幕切れでした。結果として、化野先生がギンコのカモにされてしまったのはご愁傷様でしたが(^^;まあ、そのうち価値出ますよ。先生(となぐさめてみる)
posted by てんちょ at 17:04| 大阪 | Comment(0) | TrackBack(29) | 蟲師 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年02月26日

蟲師第17話「虚繭取り」

 えーっ、20話で打ち切り?今月の「アフタヌーン」で発表がありました。放映版の最終話は「筆の海」だそうです。一週遅れの我々他方局視聴者も見せていただけるのでしょうか。「サムライチャンプルー」のときもそうだけど、いくら評判になってもフジテレビは深夜アニメクッション材としか考えてないってことですね。最低だ。文化の破壊者とはこのことだな。

 一応、宙に浮いた残り6話は、DVDでは発売される予定。スカパーが出資しているようだから、CSでは配信されるんでしょうか。しかしなるべく多くの人に見てもらいたいから、今後も地上波で見せてほしいですね。監督は第2シーズンも作る気満々のようですが。

 さて、そんな生臭い俗世の話はさておき、作品中ではいつもと同じ独特の時間が流れていきます。今回の「虚繭」は、原作の中でもかなりはっきりと覚えていた数少ないエピソード。ふわふわもやもやとした原作の描き方なら可能であろう世界を例によって細部まできっちりとピントを合わせて見せて、なおかつ説得力を獲得するアニメ版の力業には呆然とする限り。

 特に最後、繭の中から、いとの指がむにゅっと出てくるシーンなんて、原作のああいう描き方だからこそ可能だと思っていたので、まったく同じ形で描いてしかも納得させる表現になっていたのには心底驚きました。本気で表現を突き詰め、「描きたい」と思ったことは描くことができるものなのですね。

 今回は、かなり番外編的なエピソードで、そもそもギンコはほとんど登場せず、ウロ守(つまり虚繭師)あやの回想が大半を占める特異なエピソードです。5年前、自らの不注意(とはいってもほとんど避けようのない偶然)で姉のいとと生き別れになってしまった悲劇。大半が回想、といえば先週のマイメロも同様ですが、印象はまったく違う(当たり前だ)。しかもギンコの役割は、あやの問題を解決することではなくて、「あきらめさせる」こと。にもかかわらず、あやの執念が実り、さらに何年か後にいとはひょっこり戻ってくる。

 実はこのエピソードを見ていて思い出したのが、ホーキング博士でおなじみの「ワームホール理論」。SFではおなじみの設定で、ひとむかし前なら「ワープ」とか言われたアレです。「ワームホール」とは、すなわち空間に穴を開けて遠く離れたふたつの地点に近道を作ってしまおうという理論。絵空事のようですが実際に研究が進んでいて、いろいろな方法が考案されています。平面である紙の上にあるA地点とB地点。普通ならまっすぐ線を引くのが最短距離だけど、紙を二つに折って両点を重ね合わせてしまえば、距離はほぼゼロになります。

 これまでにこのブログで紹介した理論に比べればはるかに有名だから、ご存じの方も多いことでしょう。さて、今回思ったのは、虚繭のメカニズムをこれで説明してみようということではなくて(それは野暮ってもんです)、漆原氏が「ワームホール」という語感から「虚繭」を思いついたのではないかということ。「ワームホール」とはすなわち「虫食い穴」。西洋の科学者が身近なもので説明するために「リンゴに空いた虫食い穴」で例えたのが始まりです。だからまあ、実際のワームホールに虫は必要ないんだけど、本当に空間に穴を開ける虫がいたとしたら?このこと自体は当然誰でも思いつくことで「ドラえもん」にも似た話があったと思うんだけど、「虚穴」という超空間の考案など、理屈の突き詰め方がすさまじい。結果として、漆原氏ならではの、ローテクだかハイテクだかよく分からない一種幻想的な小道具として完成されているように思えました。

 ひとつには、姉妹の師となるじいさまの存在感による説得力もあるんですね。この配役は実にうまい。そのことをきちんと理解しているアニメ版は見事です。あの穏やかでカリスマに満ちた声。誰だっけ?と思ってたら、ああ、青野武か!
posted by てんちょ at 16:08| 大阪 ?J| Comment(6) | TrackBack(32) | 蟲師 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年02月21日

蟲師第16話「暁の蛇」

 見るのに時間がかかってしまいました。すみません。忙しいので少し短めに。
とはいえ個人的には、今回が今のところシリーズ最高傑作と言っていいかと思います。目を奪う鮮やかな桜吹雪。一定年齢以上の方にすれば、桜吹雪といえば「めぞん一刻」を思い出されるかもしれませんが、あんなの問題にもならない。幻想と狂気が入り交じった独特の構成。影の姿をした独特の蟲。そこに桜の鮮やかな色彩が見事な彩りを添えている。

 まあ、もちろんCGを使えば桜の花びらを散らすのなんて簡単、とは言えますが。でも、普通は桜の花びらが紙きれみたいにピラピラになってしまうのですよ。そんな風に、一枚一枚が質感を持った形で

「はらはらっ」

 と舞い落ちるなんてことはない。桜吹雪は古来より散々使い尽くされている小道具であるだけに、使い方がとても難しいと思うのですが、あえて原点に立ち返って生物としての桜の質感にこだわった制作陣の作戦は正解。桜そのものが見事にキャラ立ちしてます。花見のころの、あの「もわっ」としたもの狂おしい陽気が肌に感じられるよう。

 実は原作のことはほとんど覚えていません。今回が見事な完成度に仕上がったのも制作陣の読み込みのたまものでしょう。原作を大切にしつつ、その表現の細部に光りを当てて膨らませていくその真摯さには改めて敬服させられる。その中で展開される悲劇ともそうでないともつかぬ摩訶不思議な物語。

 今回は根本的な治療法がない「不治の病」で、病と折り合って生きていくしかない。ギンコにはアドバイスしかできず、しかもその結果かえって病状が悪化してしまっている。ギンコの側からみればこれは失敗エピソードかもしれません。でも、患者はその結果として一番覚えていたくない記憶を捨て去り、「幸せに生きていく」ことはできるようになった。息子にとっては複雑な心境であることでしょうが。最後に登場する「陰膳」が象徴しています。その複雑な割り切れないラストが、何とも切なくてよかった。

 そういや、今回登場する飯はホカホカして実にうまそう。見ていて食べたくなってしまいましたよ。表現の作りこみの進化は実にすさまじいものがある。

 ところで、本作品に登場する「生きていく最低限の記憶」とは、すなわち「小脳記憶」ではないかと思います。作品中で語られる「言葉」「飯の炊き方」「息子の顔」などは毎日反復して刷り込まれるので、忘れにくい。ただし、その領域まで新しい知識を持っていくのは大変で、かなりの修練がいります。「自転車に乗る」なんてのはまさしくそうですよね。実はこれがいわゆる「身体で覚える」というやつの正体。小脳で覚えさせるとなかなか忘れなくなる。これに対し大脳記憶は短期的に覚えていられるけれどすぐに忘れてしまう。おそらく、この蟲は主に大脳記憶を喰うものだったんでしょうね。
posted by てんちょ at 16:48| 大阪 ??| Comment(4) | TrackBack(35) | 蟲師 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年02月12日

蟲師第15話「春と嘯く」

 雪が!雪が進化している!

 第3話での雪は大人しく落下していましたが、今回の雪は、一片一片くるくると回りながら舞っている。今回もDVDのCMで雪の中を歩く第3話のシーンが抜粋されているので、容易に比較できると思います。そりゃあ、確かに本物の雪はそうなんですが、そんなところまで表現するんですか。やりすぎです(^^;なんだか心配になってきた。

 第12話を通過後初めての土井美加ナレーションですが、なんだかこれまでと違って聞こえたのが不思議。何か、師匠がずっとギンコのそばで見守っている、という感じがして涙が出ましたよ。アレンジが少ないこの作品ですが、この解釈はまさしく絶妙。漆原氏も喜んでいるのではないでしょうか。

 さてさて今回は、袖々の子供患者。やはりギンコは小児科医が似合っているようで。子供の扱いうまいよなあ。子供は注意力が散漫で、医者は大嫌いと相場が決まっているので、子供の注意をひきつけるために、小児科医は普通の医者と違う工夫が必要なんだとか。これは知り合いの小児科医から聞いた話。もちろんおもちゃで釣ったりもするわけですが、何より話がわかりやすく面白くなければ、子供は聞いてくれません。そのあたりがギンコは実にうまい。

 特に今回は、実はギンコは「治療」といえるような行為は一切していないんですよね。少年が好んで自ら頭を突っ込んでいるものだから、治療で足りる類のことではない。蟲との付き合い方を根気強く教えていくほかにない。

 「やつらは友人じゃない。奇妙な隣人でしかないんだ」

 というギンコの言葉は、実に名言であります。蟲に限らず、自然に村を突っ込む、すべての人にぜひとも覚えておいてほしい。
 今回はいつものような弱っている子供と違って、冬場の一時寝込む以外はバリバリ野山を駆け回る腕白少年。ギンコも手を焼いてはいたようです。でも、田舎の少年って本来はああだよなあ。なんかなつかしい。田舎の少年はああやって、野山を駆け回り、自ら痛い目をして「自然とのほどほどの付き合い方」を学んでいく。そのあたり、ちゃっかり習得していたところはミハルは実にお見事。

 そんな腕白弟とひっそりと二人だけで住む姉のすずは実に気の毒。ギンコはいくらモーションかけても振り向いてくれないし。確かに閉ざされた雪山の中で限られた人間と一緒にいると相手にすがりたくなるものではありますけどね。もちろんギンコも分かっていないわけではないんでしょうけど、「やまねむる」のヌシを務めた蟲師の悲劇を見ているだけに、本気で恋愛しようとは絶対思わないんだろうなあ。
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2006年02月05日

蟲師第14話「籠のなか」

 前回に続いて悲しい話ですが、不思議な希望の芽が残されているためか、実に変わった手触りが感じられます。そもそも蟲の生態系に関する記述については、かなり詳しく説明することが多いこの作品ですが、マガリダケが人を身ごもらせる仕組みについては驚くほど何も語っていない。そのことは別にかまわないし、そんな場合もあっていいと思うけれど、結果としていつもと相当に異なる印象を受けます。幻想度5割増し、って感じでしょうか。

 竹落ち葉の吹雪、という独特の幻想演出に呆然。

 マガリダケが竹に寄生するメカニズム、その影響の及ぶ範囲を実測で把握していくギンコの方法論は、いつも同様にかなり博物学的。その竹から出る水を飲んだ生き物がすべて影響下に置かれ、マガリダケの親竹の影響範囲内から出られなくなるというのもよく分かります。ただ、その水を持っているだけで影響が及ぶというのはかなり魔術的で、いつもの蟲師とはかなり感触の異なる展開。どちらかというと、これは漆原氏自身が意図的に行っているな、という気はしました。

 そもそも今回はほぼ舞台が竹林の中、という実に特異な展開。竹林は現代でもかなりありふれた存在ですが、やせた土地の象徴であり、樹木を放逐し単一の遺伝子で一帯を埋め尽くす竹という存在は、かなり異様な生態系といえるのではないかと思います。ある意味、蟲に似てますよね。

 私の知人でも竹山を持っている人がいるのですが、中国産の竹の子が市場を席巻していることもあって、国産の竹を商品として流通させることはかなり困難。竹炭を作ってみたり、かなり苦労しているようです。毎年春先になると「竹の子を掘りに来てくれ」と言われるのですが、そんなに食べ切れるものではないし、そもそもその人の家までは遠いし、結構迷うところ。

 実は竹林の維持は、かなり面倒なのです。かなりこまめに竹の子を収穫して手入れをしていかないと、あっという間に日が差さなくなり、荒れ放題になってしまう。この作品に出てきた竹林はまだ整備されていたほうです。村人が入っていたとは思えませんから、キスケがかなりマメに手入れしていたのでしょうね。私がよく通う大阪近郊の山でも荒れ放題の竹林があります。これはもう、まぎれもないカオスです。枯れた竹が立ったままあちこちに倒れ掛かり、足の踏み場もなく、中は昼でも真っ暗で、はっきりいって分け入ることは不可能。

 こうなってしまうとどうしようもなく、台風の時に土砂崩れの原因になったりしてかなり危険(竹林に土留め作用はほとんど期待できません)。そうならないためにも、竹林はあまり金にもならないのに整備し続けるほかなく、多くの竹林所有者が渋々整備している、というのが実情のようです。

 こうした竹の不思議さ、竹の厄介さが、かなり巧妙に幻想とシンクロして、独特の効果を上げていたような気がします。非常識なほどの速度で生い茂り、版図を拡大していく竹林の中ならぱ、このような幻想譚も説得力をもってくる、ということでしょうか。

 今回はあえてストーリーに一切触れずに分析してみました。
 ただ最後に、今回本当に驚いた表現を2点。
 セツに切り倒されたマガリタケがズルズルとヤモリのように這いながら闇に消えたシーン。これは本当にドキッとしました。まさしく幻想的官能というべき今回のエピソードを象徴するシーンでしょう。
 そして最終カット。妻と娘の墓から生えた竹の子から、赤ん坊の泣き声が聞こえている。このことは一人残されたキスケにとって希望の象徴かもしれないし、新たな厄介の種でしかないかもしれない。でもそのことには触れず、ストンと断ち切るように、物語は終わる。ここから先は、我々が立ち入ることのできない領域であると宣言するかのように。

 本当に奇妙で特異なエピソードでした。
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2006年01月29日

蟲師第13話「一夜橋」

 蟲師エピソード中、トップクラスの残酷悲劇。いよいよ登場です。そうなんですよね。患者がそもそも既に死んでしまっていた、という結論では、ギンコには手の打ちようがない。

 しかしそんな中途半端な抜け殻のような女・ハナに対しても、親は村を守るために嫁がせようとするし、恋人・ゼンは思い切ることができない。医者が「もう死んでいる」と診断したとしても決して認めず、あり得ない可能性にすがろうとする。そのおろかさもまた人間。よそ者であるギンコは、だまって顛末を見ていることしかできない。

 それでもせめてゼンだけでもこの無意味な呪縛から救い出してやろうとするところは、やはりギンコだなあと思います。それで失敗してしまうところがまた、必然ではありますが切ない。ギンコといえど人の心を従わせることはできないし、たぶん失敗するであろうことは覚悟の上で、ゼンが思いきれる数少ない可能性に賭けた、というところでしょうか。こうした失敗エピソードがあるからこそ、ギンコが甘甘なヒューマニストなどではなく、極めて厳しい覚悟をもって人の生と死の現場に挑んでいるらしきことが実感できます。だからこそ、成功エピソードが安易に見えず、素直に感動できるものとなるのでしょう。

 「蟲師」がただの鬱ストーリーだと思い込んでいる見ずてん視聴者に呪いあれ。

 それにしても、今回の主役である「ニセカズラ」の生態は実に興味深い。実際に生き物の行動を意のままにねじまげてしまう寄生生物はいますから。菌類の一種に、土中→アリの体内→牛の胃の中と移動していくライフサイクルを持つものがいます。こんな無茶な移動がどうして可能なのか。まずは水溜りの中などに潜んでいるわけですが、そこにアリがやってきて水を飲むと体内に入る。菌類を体に取り込んだアリは群れを離れ、牧草の上に上り、アゴで葉の先端をくわえて逆立ちし、そのままじっとしている。もしそこに運良く牛がやってくればアリごと草を食べてくれる、というわけ。

 バカバカしい、とお思いでしょうが、実際に絶滅せずに存在しているということは、生物的コストが釣り合った合理的存在ということなります。ひょっとすると、ニセカズラはこの菌類からヒントを得て生み出されたものかもしれません。死体に寄生する、というのは見事なひねりを加えたアイデアですけどね。転落死した生物は脳死していたとしても、反射系を乗っ取ってしまえば、「乗り物」ぐらいには使えるということなのでしょう。まあ、実際にこんな生き物がいるとして、転落死した生き物の中には修復しようもないぐらいぐちゃぐちゃなものもいるでしょうしねえ。「死体がまったくない」状態はさすがに無理かと。物語としては「死体がまったくない」方が怖いですから、これはこれでいいんですけどね。

 ところで、話は変わりますが、今回のエピソードから思い出したのが、徳島・剣山の祖谷渓の蔓橋。子供のころ、徳島に数年住んでいたことがありまして、そういえば蔓橋に行ったことがあるんですよ。すっかり忘れていたんだけど、今回もまた作品を見て唐突に思い出しました。こういうところもまた、本作品の魅力。田舎体験の多い人ほど、こういう「思い出す」引き出しが、この作品から生まれるんではないかと思います。そういう話もぜひ読んでみたい。

 さて、話を戻すと、祖谷の蔓橋というのは、踏み板(があるべき部分)まですべて蔦でできているため、ちっこい子供の足では、網目からズボッと落っこちそうで実に恐ろしい。しかも、谷底は深いし、谷間を渡る風は強く、実に容赦なくギシギシとゆれます。もう、「絶対に落ちる!」というぐらいの角度まで。確かこのとき、小学校1年生か2年生だったと思う。もともと怖がりだったので、確か渡れなくてギャーギャー泣いてしまったんじゃないだろうか。結局、父親がかついで渡ってくれたんだったかな。

 こんな離れ里の蔓橋があったら、うーん、渡れるかな。相当怖いと思いますね。ギンコは度胸あるよなあ。
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2006年01月22日

蟲師第12話「眇の魚」

 とうとう来ました、ギンコ誕生秘話。原作ではなんでしたっけ。「アフタヌーン」本体の方に番外編的に掲載されたんだったかな。でも非常に印象深い話で、原作の中では極めてよく覚えてます。と、言おうと思ったんだけど、やはりアニメ版で見ると「ええ、こんな話だっけ」と驚かされてしまいます。もちろん隅の隅まで原作に忠実なんだけど、原作では朧にしか描かれていない部分まで極めて精緻に描き出されているので、結果として違う印象を受けるということなのですね。

 実は今回は、本編そのものよりも、土井美加VOICEの「ぬい」に衝撃を受けました。ぬいはギンコがギンコになるきっかけを作った、いわばギンコの師匠的な女性ですが、あの圧倒的なカリスマを見事に体現している土井さんの堂々たる声質。感嘆させられました。

 そしてハタと気づいたのは、土井さんはこの作品のナレーションも担当しているではないか!ということ。実は土井さんのおばさんナレーションにはちょっと違和感を感じていたのですが、すべてはこのエピソードのための演出だったのですね。ならばすべてが腑に落ちる。

 今回のストーリーは蟲師にしては極めて単純。母を失って山で行き倒れたところを、ぬいに拾われた少年ヨキが、蟲師・ギンコになるまでの物語。ぬいはもともと夫も子も持つ蟲師だったが、沼に住む蟲トコヤミに取り込まれて家族を失う。何とか家族を取り戻せないかと沼のそばに住み続けてきたぬいだったが、自分もトコヤミに取り込まれつつあることに気づく。ヨキはぬいを助けようとするが果たせず、自分だけ戻ってきたときはすべての記憶と片目を失っていた。

 夜の山道を歩いていると、ずっと同じところをぐるぐるまわっているような恐怖感に襲われるというのは、実際にやったことのある人なら必ず実感できるはず。気がついてみたら自分の名前も思い出せなくなっていて…というのはいかにもありそうで怖い話です。このとき、思いついた言葉を自分の名前にすれば抜け出せる、というのは漆原氏のオリジナルでしょうけど、僻地の埋もれた伝承あたりに本当にありそうなリアルな手触りがすごいです。ヨキは、結局一番最後に見た、トコヤミに寄生(?)している蟲・ギンコを覚えていて、それが自分の名前となったのですね。ギンコはこの蟲の正式名称ではなくて、ぬいが付けた仮の名。でもそれだけにヨキには思い入れが深かったはずです。

 ヨキがギンコを新しい名として選んだ瞬間、ヨキだったころの記憶はすべて消えてしまう。ということは、ぬいとの暮らしも、ぬいから教わったこともすべて今のギンコは覚えていないわけで。ぬいを救いたいという気持ちがヨキの姿を変えてしまったというのに。思えばこんなに悲しい話もありません。

 たいていの物語において、主人公が主人公になったきっかけというのは、極めて重要なもので、自分の行動原理はそれによって決まるといってもいいほどなのですが、ヨキにとっては強烈な記憶であっても、ヨキとしての記憶を失ってしまったギンコにとっては、まったく縁のないもの。いわばヨキはトコヤミの中で死んだのであって、ギンコはある日突然、成長した少年の姿でこの世に生を受けてしまったことになります。つまり今回語られた物語は、ギンコにとっては無関係な他人の物語といってもよいことになってしまう。ギンコがギンコとしての人格を獲得したエピソードは他にあるはずであって、それはいまだ語られていないわけですが…これはいつか見ることができるのでしょうか。

 それはさておき、今回も表現はリアル。今回のテーマは「粘り」とみましたが、いかがでしょうか。ヨキの母を飲み込んだがけ崩れの泥の吸い付くようなとろっとした質感にまず愕然。何か夢に見そうです。あんなのに襲われたらまず間違いなく窒息死ですな。そしてぬいが住む沼のどろりとした濁り。てらてらとしたアルビノ化した沼の片目の魚たち。そしてぬめっと深いトコヤミの黒。
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2006年01月15日

蟲師第11話「やまねむる」

 今週、関西は少し早い時間の放映。おかげで3時からHD予約録画を占領してる家族とカチ合わずにすみ、今回はHD録画できました。いやあ、やはりデジタルは美しい。ハイビジョンだともっとすごいんだろうなあ。そういう意味では、やはりDVDは押さえておく必要がありそう。豪華版、予約しちゃいました。

 今回は秋の里山の話、というわけで、月に1回くらいは山歩きする身としては、またしてもいろいろなことを思い出す冒頭でした。いや、山肌にポコッと穴が開いてるとこなんて見たことはないですけどね(笑・しかし秀逸な冒頭でした)秋の山の「むせかえるような匂い」というのはわかります。ツンとした刺激臭だったり、甘ったるかったりいろいろなのですが、確かに秋の山は濃密な香りのせめぎ合いの中にある。「実る」というのは、そういうことなのですよ。そんな異質な空間の中では、里ではあり得ないいろいろなことが起きる。そんな気になって納得させられてしまうのだから、この作品は本当に不思議です。幻想的なのに、きわめてリアルな手触り。そこがすごい。

 なにやら企んでいる雰囲気だった、山の主を務める蟲師ムジカ。ギンコに役目を押しつけようとしているのかなと思いながら見ていたのですが(原作の内容は完全に忘れてました)、自分の死と引き換えに、新たに主となってくれるクチナワを呼び寄せていたのですね。自然を律する役割など、人間には重すぎる職責。自らの若い時の過ちがゆえに、主を引き受けざるを得なくなってしまったムジカでしたが、それにしても悲劇的すぎる生涯。彼と一緒にいたいがために、先代の主だったイノシシを殺してしまう、ムジカの恋人・朔もすごいですが。

 結果的に、ギンコが頑張ってどうにかなる事態ではありませんでしたが、それでも「できるだけのことはやろう」とするのがギンコ。辛いエピソードですが、ムジカの弟子の少年が、技術を里に受け継いでいく、というラストは救いが感じられました。こういうところも、この作品の魅力です。ラストシーン、人の理など知らぬげに山頂にどっしりと腰を据えたクチナワの姿をみるに、とてもじゃないけどギンコが頑張ってかなう相手ではないことが痛感させられます。

 しかし、こういう失敗エピソードのほうが、ギンコのBJ性が際立つと思うんですが、いかがでしょうか。生と死の選択肢を前にして必ず迷わず生を選ぶギンコ。その確信はどこから来るんでしょうか。これは原作にもまだないエピソードのような気がします。漆原氏はあえて描くのを控えている気配も感じられますが、もし最終盤にオリジナルエピソードを手がけるのであれば、ぜひそのエピソードに挑戦していただきたい。普通ならそんなエピソードは断固反対するところなんですが、このアニメ制作陣ならできる気がするからです。

 漆原氏も参加して最終盤にオリジナルエピソードもあるかも、という話は今月の「アニメージュ」で知りました。いつもアニメ誌は買わないんですが、今回は珍しく新番組情報が知りたくて買った次第。ここで長濱監督が明かしていることがなかなかおもしろくて、もともとアニメ独自の「動き」のスキルを数多く持ったベテランスタッフに集まってもらった上で、その技術を封印し、人間の動きをストップウォッチ片手に一から計測しなおしたというのです。なるほど、本作品の独特の動きは、こうして生まれているわけですね。
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2006年01月08日

蟲師第10話「硯に棲む白」

 今週から東京に遅れること一週間…痛いなあ。とほほ。しかし、二週間ぶりの「蟲師」はやっぱりすごくて、身を乗り出して見入ってしまいましたよ。

 今回のテーマは「雲」なのかな?やっぱり。最後にぶわーっと吹き上がる暗褐色の桃色雲が実に印象的でした。なんかね、絞ったら今にもぽたぽたと水滴が落ちそうな感じが見事なのですよ。

 年末、なんば花月へ吉本見に行ってきたんだけど、形態模写の人の芸を見て、やっぱり技芸によって再現された事柄は、本体そのものよりも、多くのことを発見させてくれるものなんだなと改めて確信しました。

 何かもう、噛み締めるようにちょっとずつ味わうだけで十分満足ですよ。評論とか何とかそんなことしなくてもいいんじゃないかという気すらしてくるんですが。それじゃお前ここで何をしてるんだ、ってですか。それもそうですね。話を先に進めます(^^;

 実は子供のころ、ちょっと書道教室に通っていたことがありまして。実はあまりに早い時期に毛筆に取り組むと、かえって悪筆になってしまうんだそうで。くそう、もう遅いよ(^^:
 今にして思えば何で書道なんかやりたがったんだか謎ですが、たぶん、筆で何か書くのがかっこいいと思ったんじゃないですかね。子供ってのはとかく形から入りたがるものでして、それほど力もないのに、せっせと墨すってぺたぺた書いておりました。まあ、確かに墨汁のべったりとした感じと違って、すり墨は、なたね油が含まれているので、筆運びがなめらかになるんですね。だからって急に字がうまくなるというものでもないけど(^^;
 まあ、何にしても墨をするという作業は、子供心にもなかなか楽しかった。ずっと忘れてたことなのに。このアニメを見るといろいろなことを思い出してしまいます。不思議ですね。だから、化野先生の蔵に忍び込んだ子供たちが硯を発見して墨をすりたくなった気持ちが実によくわかるのですよ。ホルマリン漬けの化け物はおっかないけど、まさか墨すって何かが起きるとは思わないもんなあ。このあたりの導入部は実にうまい。

 それにしても今回は化野先生も不覚。

「あんた、自分が愛でているものが異形のものだってことを忘れたか」

って、アイタタ。ギンコ、痛い痛いよ(笑)われわれオタクにとってもそのセリフは。化野先生が最後の最後になってもコレクションに未練タラタラなとこも痛い。まあ、我々の世界の住人・化野先生が登場すると、暗い話もなんかあっけらかんと突き抜けた明るさを持つのは実にいい。今後のエピソードでもぜひ活躍していただきたいですね。

 ところで今回の主人公は、実は化野先生でも患者の子供たちでもなく、中盤になってようやく登場する、硯を作った女職人・たがねだというところはなかなか面白い。まさしく構成の妙でしょう。たがねは悲劇的なキャラクターだけど、自分の信じる世界を持てるというのは本当に強い。彼氏を失っても、一人でしっかりと生きていくことができるはず。そのあたり、悲劇に流れず、地に足がついた表現を忘れないのは、この作品ならではの味わいのような気がします。

 それにしても、化野先生、これだけかわいい独身女性が目の前に出てきても、口説こうなんて気はこれっぽっちもなくて、自分のコレクションのことだけが心配なのね。やっぱりオタクの鑑です(オイ)
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2005年12月18日

蟲師第9話「重い実」

 漆原氏の原作は、第1話からずっと読んでおりますが、「アフタヌーン」の連載版で目を通すだけで単行本を買っていなかったので、こうしてアニメで見ていくと、ずいぶんと細部を忘れているもんだなあと思っておりました。まあ連載時というのはかなり前のことになってしまいますから。

 しかし、どうも必ずしもそれだけでもなさそうですね。今回、「アフタヌーン」最新号に掲載されている最新エピソードとアニメ版を比較してみると、かなり印象が違うのが分かります。漆原氏は、意図的に「表現しない」部分をいくつも残しておくスタイルを採っているようだからです。読み手がそれぞれに空白を埋めて作品を膨らましていってもらえればいい、ということなのでしょう。

 つまり、この作品をアニメ化するということは、当然のことながら、アニメ制作者側の「解釈」が大きく影響を及ぼすことになるはずです。本来は。表層的なストーリーに忠実だったとしても、色を乗せ動かすということは当然まったく違う表現になるわけですから。極端な例で言えば、ストーリーはほぼ原作に忠実なのに原作に対する悪意すら感じられる真下耕一監督の「ツバサ・クロニクル」(私は真下支持派ですが)。

 ところがこの作品はどうもそうではない。原作の細部に分け入り、ひとつひとつの構成要素を丁寧に検証し、原作者・漆原氏の目にはどのように見えていたのかを突き止めようとしている。本当に大真面目に、アニメ版スタッフたちは漆原氏自身になろうとしているのですね。そんなことが可能なのか、とも思いますが、事実やりとげてしまったのだから納得するしかない。

 今回でいえば何よりも「コメの粒の重さ」。そんなものをありありと再現できたアニメなど、私は見たことがありません。いや、この作品が登場するまでそんなものをアニメに求めようとも思っていなかったし。穂の垂れ具合、籾を落とした時のパラパラという音、ぷっくりとした粒の膨れ加減。田舎の金沢ではよく見たし、舞鶴でも周囲にありふれた光景だったからよく覚えているけれど、じゃあお前絵に描けるかと言われればとても無理。このスタッフは、一年ぐらいスタジオの裏で田を耕してたんじゃないかと思えるほどリアルな表現にはまったく唖然となります。
 それ以外にも今回は、灯のない夜のあぜ道(十字路の中央がぽわっと光る、これは本当)、木戸の隙間から土間に差し込む光の美しさなど、体験していなければ絶対に描けないはずの光景が次々と登場。田舎暮らし経験者も絶句する見事さです。

 今回の話は一風変わった内容であったこともあって割とよく覚えていたんですが、それにしてもアニメ版で見返すとやはり「あれ、こんな話だっけ」と不思議な気持ちになります。これはみなさん触れておられますが。毎度毎度ながら、私もやっぱりそう感じてしまう。原作に非常に忠実であるにもかかわらず、原作よりもくっきりと細部まで分かるんですね。初めてピントの合った眼鏡をかけたような気分。

 原作でそんなこと考えたこともないけど、アニメ版を見ていると毎回「生きよう」というメッセージがはっきりと伝わってきます。死に対する理解も十分に示しつつ、だからこそ生きることの可能性を信じたい、というところでしょうか。ギンコはそのあたりにかなりこだわりを持っている感じ。
 「もののけ姫」じゃないんだから、たいていはそんなメッセージを発しても暑苦しいとかうっとうしいとか思われてしまうのがオチですよね。でも、殉死を尊ぶ空気を生みやすい純日本的な世界観の中であえて「生きる」メッセージを発し続けるのは、難しいけれども価値あることではないかと思います。

 まあ、今回は「不死を選ぶ」ことがテーマだから、必ずしも「生きる」ことにならないかもしれないけど。しかし、「死よりもよい可能性がないか」を常に探し続けるギンコには心打たれます。いかにも日本的な「土地への愛着」がテーマになっているからこそ、祭主の選択には説得力が生まれますよね。
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2005年12月12日

蟲師第8話「海境より」

 ただいまー。トリエンナーレの報告はまた明日にまわしまして。

 やはりまずは「蟲師」をば。
 今回のテーマは「霧」。それにしても毎回、アニメがもっとも苦手とするジャンルに果敢に挑み、見事な果実を持ち帰る制作陣のチャレンジ魂には圧倒されます。記号としての便利な目隠しの「霧」でなく、濃淡と深さを持った「魔」を感じる霧がまざまざと表現されているのには、空恐ろしさすら感じます。

 それだけでなく、今回は空と海の描写もすごい。個人的な体験に照合してみるに、この物語の舞台となった海は間違いなく日本海でしょう。冬の鉛色の空とどんよりと濁った海、夏の抜けるような青空とあざやかなまでにすみきった海。舞鶴にいたころ毎日見ていた光景をまざまざと思い出しました。
 そして、時に海岸に押し寄せ、ずふずぶと不気味に水位を上げていく高潮の不吉さ。みな鮮やか過ぎるほどのおそるべき再現度です。

 そんな環境の中には、こんな現象も起きるやもしれぬ、そう納得させられてしまう力技は、地道な細部の描写の積み重ねがあってこそ発揮されるものです。

 今回はかなり大仕掛けな蟲が登場しますが、大スペクタクルをみせずむしろ断片的な描写を積み上げることでリアリティを作り出していくスタイルは、「旅をする沼」と好対照をなしていて、見事。蟲の性格は似ている部分もあるのに、まったく違う話になっていますからね。

 もちろんそれは漆原氏の原作がそうなのであり、それにとことん忠実であろうとした結果がこれなのだ、ということはよくわかっているのですが、やはりアニメとして独自のものになっている。演出として十分に咀嚼された結果、なぜ漆原氏がこのような表現手段を取ったのかを100%理解したうえで同じ道をなぞっているので、さらに深く説得力を増したものになっているのですね。

 あまりにも衝撃的なことは断片的にしか覚えていないものだし、それらを後からつなぎ合わせたときに初めて大きな「絵」が見えてくる。特に今回は「霧」に呑まれることで発生する時間のズレというマジカルな素材が隠しこまれていますから、それに説得力を持たせるためには、断片的表現はまさしく格好のスタイルだったといえるかもしれません。

 それにしても、ここまで「救えそうもない」依頼人(正確には違うけど)シロウを相手にして、あくまで人間の世界に引き戻させることにこだわるギンコは、やはり「ブラックジャック」ですねえ。普通のクリエイターなら「シロウとみちひが霧の中に消えて行ってしまう」という結末を考えますよね。その方が絵になるし悲劇的に盛り上がるから。

 でもそこを「人間の世界に踏みとどまるべきだ」と考えるのが漆原哲学なんですね。原作を読んだときにはそこまでも読み取れませんでしたけど、じっくりと咀嚼されたアニメ版は、原作の深みをも浮かび上がらせてくれます。
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2005年12月04日

蟲師第7話「雨がふる虹がたつ」

 今回のテーマは雨。本当、アニメで描くにはすさまじく難しい題材だと思うんだけど、毎回毎回、頭が下がります。冒頭の、雨粒に打たれて花びらが

「はた、はた、はた」

という感じのリズムで揺れるのは、見事のひとこと。画面に登場するひとつひとつの事柄、隅々まで観察が行き届いていて、いつも見慣れているはずのことなのに、見せられて初めて「ああ、そういえばそうだ」
と膝を打つ動きであるのには本当に感嘆します。

 今月号の「アフタヌーン」で、漆原先生が第1話のスタジオ試写に参加したときのエピソードを書いておられますね。放送終了後に長濱監督が涙ぐんでおられたとか。そうだろうなあ。これを形にするまでに、どれほど血のにじむようなすさまじい試行錯誤があったことか。

 最近、このアニメを見ていて思い出すのが、アルゼンチンの作家ボルヘスが書いた「『ドン・キホーテ』の著者、ピエール・メナール」という作品のこと。岩波文庫から出ている短編集「伝奇集」に収録されていますんで、ご興味のある方はぜひ目を通してみてください。わずか数ページの短編です。

 「ドン・キホーテ」はみなさんご存知のとおり、スペインのセルバンテスが著したものですが、この作品に魅せられたアルゼンチン人ピエール・メナールが、自分自身の手で「ドン・キホーテ」を書こうという野望に取り付かれる、というのが物語。メナールが試みたのは、現代の視点で「ドン・キホーテ」を書くことではなく、彼独自の視点から「ドン・キホーテ」を語りなおすことでもありません。彼は正真正銘、自分自身がセルバンテスになって、自分自身の手で「ドン・キホーテ」を書くというとんでもない野望を抱いたのです。そのためにセルバンテスの時代の社会情勢を学び、当時のスペイン語を学び、セルバンテスの置かれた家庭環境を調べ、セルバンテスになりきって改めて自分の手で「ドン・キホーテ」を書こうとした。
 で、結果として何ができたかというと、普通に本屋で出回っている正典の「ドン・キホーテ」と一言一句違わないものだった…という誠に皮肉なストーリー

 このアニメのスタッフが試みたのも、実はほとんど同じこと。まさしく原作者の漆原友紀氏になり切って自分たちの手で正典の「蟲師」を作ろうとしたわけです。ボルヘスの書いているように、その試みが完璧に成功したら、作品はまったくの原作の丸写しになってしまうはず。
 ところが、そうはならず、原作を完全に踏襲しつつも、それを超えてしまった。何でこんなことが起きたのか、まったくわかりません。アナクロな言い方になりますが、本当に本気で作られたものには魂がこもる…ということなのでしょうか。

 それにしても、これだけの鬼気迫る完成度。スタジオに死人が出ないことを祈るばかりです。命あってのものだねですから。

 今回も「雨」と「虹」という何とも把握しづらくあいまいな素材を、ここまでリアルに咀嚼された表現で描き切っているのには驚きます。普通に考えればデッドエンドで終わるしかない話なのに、何かがふっきれたのか、今回の依頼人の男は生き延びて自分の居場所を見つけ出すことができた。ギンコは特別に施療を施していないのに、です。おそらくは、ギンコが男の立場に共感し、一時行動をともにした、という行為そのものが、男に対する何よりの治療となったのかもしれませんね。

 それにしても「自然現象に近いもの」という今回の蟲、虹蛇。なんか「絶対少年」に登場した「フェアリー」に対する歩君の見解を思い出してしまったなあ。「蟲」と「フェアリー」って、結構近いもの感じますよね。人間からの距離感とか異質さとか。
posted by てんちょ at 18:49| 大阪 ????| Comment(0) | TrackBack(43) | 蟲師 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする