2011年09月05日

日本SF大会静岡大会ルポ「絶対少年再考」

 SF大会、全編台風にみまわれましたが、大過なく終了しました。ていうか、なんとか会場にたどり着いてしまえば、あとはずっと建物内ですから、宿と往復する時以外は傘すら不要なわけですね

 運良く移動時はいつもほとんど雨が降っておらず、傘はあまり使わずに済みました。二日目には「新幹線が止まった」とか聞いて焦りましたけど、閉幕までには平常に戻ってひと安心。

 今回の企画「絶対少年再考」は、こちらでも散々語り合った思い出の作品にまつわるパネルですので、興味深かったです。でもトークの録音しそびれたOTL

 記憶のあるうちに内容をメモしておくと(ちなみに記憶に基づく大意、細部は異なると思われます)

 伊藤和典「丹那(田菜)を舞台にしたのは特に意味はないです。自宅(伊豆)からすごく近かったから。ちなみに横浜は仕事場があったからですね。最初はあのマテリアルフェアリーになった造型をプロデューサーが持ってきて『これで何か一本書いて』という無茶な企画だった。ずっと三部作・三部作と言ってきたけど、あれは言い訳みたいなもので、ガメラの時と同じ。特に構想があったわけじゃないけど、もしやるとしたら再び田舎で巨大フェアリー出現の影響なんかを書いたと思います」
 望月智充「普通、脚本と監督は毎回入念に打ち合わせするんだろうと思われがちですけど、この時は伊藤さんの書いた原作を僕がアニメ化する、という感じだったので、それほど顔を合わせる機会はなかったですね。まあ、特に横浜編は執筆が遅れてたし(笑)」
 伊藤「そういえば、この本書いてる時は結構鬱入ってました。横浜編の時は特にひどかったなあ。なんか暗い、って横浜編あまり評判がよくなかったんですけど、でも僕は好きでしたよ」
 望月「もちろん僕も好きでした(笑)」
丹那のロケハンについて
 伊藤「丹那はとても小さな盆地で、ぐるりと一周する道路があるだけ。その真ん中に頭谷の森があったんですが、今はほとんど切り倒されてしまいました」
 望月「すごく小さいから、どんなにじっくりロケハンしても、せいぜい半日。キャラクターを乗せたら映えるアングルを探しながらカメラに収めていきました。平五郎さんの天文台も、実際には何なのかは不明。倉庫か何かですかね?そういえば今思い出したんですけど、数年前に久々に丹那のお寺(作品中も何度も登場)を訪ねたら、住職さんが『最近急に若い参拝者が増えた』というんですね。それで架かっている絵馬を裏返してみたら『聖地巡礼』と書いてある(笑)」
 伊藤「総領息子の住む屋敷の離れが何度か出てきますよね。これ、映えるのでぜひ使いたいということになったんですが、僕は反対したんです。なぜならここは使用人の使う場所だから。もちろんフィクションなんだけど、そこは守らないとウソになっちゃう。だからワンクッション置いて親とケンカして『レジスタンス』してることにしたわけです」
マテリアルフェアリーについて
 伊藤「あまりSFとかファーストコンタクトとかいうことは考えずに書きました。四次元とか異空間の存在とか、当時からいろいろと解釈が出たようですけど、僕ら二人とも文系ですから(笑)特に文献も参照してませんね。あくまで当時自分の中にあったものを出した結果です」
 望月「派手なドンバチとかはもう飽きたし、派手な美少女ももういいなと、それでこういう話になりました。でも結構盛りだくさんですよね。地味だけど盛りだくさん、そんなものをねらったわけです」

会場からの質問
 ー須河原さんについて教えてください
 伊藤「あれは僕の昔の知り合いだった山形の放送局のアナウンサーがモデルなんです。『真夜中にサイレンが鳴ると血が騒ぐ』というのは、本当に彼女が言った台詞です。でも、どうしても名前が思い出せなくて(笑)結局彼女にはこの作品のこと、知らせられませんでした」
 ー田菜篇のヒロインの娘のへそ出しルックがすごく好きでいつ見ても心和むんですが
 望月「僕も心和みますね(笑)まあ、田菜篇は夏、ということでそういうことになったんですが。実はみなさん意外に思うでしょうけど、NHKはテレビ東京よりも規制が緩いんです。だから、ちょっと冒険してみようかなという思いもありました」

 以上です。

 これ以外のパネルもいろいろと興味深かったんですが、それはまあどこかで書かれると思うのでひとつだけ。ゲームの保存を議論するパネルとか、かなり個人的に興味深かったですね。映画の保存に興味のある人間としては。映画はフィルムだけ押さえておけば方法はいくらでもありますが、デジタル化すると、逆に保存しにくくなるという逆説にはなるほどと強く同意。ハードも一緒に保存しなければならないけど、ハードはすぐ壊れる…だからオリジナルがデジタルであるゲームの保存は大変困難。しかも複雑に絡み合った版権をクリアするのは至難の業。結局どうにかして残すためには、マニアたちに頼るしかない。映画とあまり状況は変わりませんね。「2010年代のアニメ」のパネルは、結構シビアでした。東日本大震災の影響が出てくるかもしれないのはこれからなのか…オリジナルアニメの大活況がこれを少しでも食い止めてくれるといいんだけど。

 そんなSF大会も、「暗黒星雲賞・自由部門」に「台風12号」を選び(笑)無事閉幕。ちなみにゲスト部門の受賞は開会式で「私にくださいっ」と叫んでいた司会の声優・池澤春菜嬢。「司会の特権を十二分に駆使し」と賞状で謳われました(^^;なお今は亡き小松左京氏、開会式で挨拶した静岡市長を押しのけての受賞に、壇上で土下座する春菜嬢が見られるという、伝説に残る大会となりました。滅多に見られませんぜ、池澤春菜の土下座(^^;

 来年は北海道夕張市…うーん、無理だな
posted by てんちょ at 00:09| 大阪 ☔| Comment(0) | TrackBack(0) | 絶対少年 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年06月13日

絶対少年第26話(2周目)「感情を明示することと隠すことは同じであること」

 もたつき時に悶え苦しみながらも、何とか公約実現。ようやく2度目の最終回を迎えました。そういえば「絶対少年」の本放送は5月スタートだったから、一年を過ぎたことになるんだなあとしみじみと実感。

 前回、2度目の最終回には何を感じることになるんだろう、と書きました。言葉の裏には、実際にはもう書くべきことは書き尽くしていて、最終回を見ても何も感じないかもしれない、という不安があったわけですが。

 それはある意味、思いあがりでした。

 まさかラストシーン、こんなに素直に感動してしまうとは思わず、大変に驚かされました。

 ようやく学校へ戻ることを決めた希紗。黒づくめのロングばかり着ていた希紗にしてみれば、丈の短いスカートに生脚という制服は尋常ではなく「寒い寒い」とこぼします。これに対し理絵子は「女子高生は脚の感覚がなくなって初めて一人前」と生意気な発言。大人代表として「人生をなめるな」と2、3時間説教してやりたい気もしますが(笑)、希紗は「そういうりえぞーだって本当は寒いんでしょ?」ともっともな発言。今までのトンがった理絵子なら「あんたねえ」とか説教するところなのでしょうが、素直にも「…いや、実は寒い」とボソッとつぶやき、希紗が晴れやかな顔で笑うところで「完」。

 本放送時には極めて気張って見ていたこともあって「なるほど」という思いは感じつつも、ちょっときょとんとしてしまったのは確かです。「田菜篇」のラストの感動が忘れがたかっただけに、「え、これで終わりなの?」と物足りない思いを抱いた人が多かったのをよく覚えています。

 もちろん、それは望月監督が生理的感動というものに限界を感じ、あえて生理的感動を廃する方向に向かっていった転換点でもあることを、その直後に作られた「しにがみのバラッド。」で知ることになるわけですが。

 にもかかわらず、2周目の到着点であるこのラストシーン、見ている自分も驚くぐらい深く感動してしまったのです。これは望月監督にとって不本意でしょうか。そうではないと思います。感動にもさまざまなものがあり、生理的感動は強烈ですが表層的であり冷めるのも早い。今回の感動はむしろ思索的感動とでもいうべきものでした。それがいったいなんであったのか、2周目の終着点を迎え、今回はそのことを中心に考えてみたいと思います。

(ちょっと休憩。後ほど続きを書きます)

 すいません。遅くなりました。
 さて、なぜ「寒い」と感じるか感じないか、言うか言わないかのような、生活の断片のようなささいな描写になぜこんなにも感動してしまったのか。そのことを考えるためには、このエピソードの前半部、主人公の少年少女たちがフェアリーについて考察を重ねるシーンに戻ってみる必要があります。

 マッキーが語った「がまんした気持ちはどこへ行くんだろう」「たぶん気持ちは形になるんだ」という部分。そして希紗の語った「ぶんちゃんもポーちゃんも、私が望んだから来てくれたんだ」というセリフ。

 結局のところ、人間とは気温が摂氏何度かになったら必ず「寒い」と言うわけではない。人が感じる寒さには個人差があるし、寒く感じても決して寒いと言わないこともある。しかし寒いと言わなかったからといって、寒くなくなるわけではない。では「寒い」はずなのに「寒い」と言わないことは正しくないことなのでしょうか。必ずしもそうとも言い切れません。本当は寒さを感じているのに寒さを感じないように振る舞うこともまた、そのときの自分の周囲の環境に対する知覚の一形態だからです。正しいとか正しくないという表現は適当ではありません。

 人間の意識とは、周囲の環境に対する「寒い」「寒くない」などという主観的評価に基づく、「生理的反応」がまずあります。その一方で、実際にどう感じているかとは切り離して脳の意識としてどう評価するかという「寒い」「寒くない」があります。人間の意識と周辺環境をワンセットのものと考えてみれば、「寒いから寒いという」ことと「寒いが寒いと言わない」ことは、実はひとつの側面を切り取っているにすぎず、どちらも実は同じことなのです。

 意識と環境が絡み合うと、様々な反応があらわれます。フェアリーも、人間も、どっしるとしっしんも、ぶんちゃんも、わっくんも、憑物神も、実はみんな同じものであると言えます。現れ方は違うように見えるけれど、同じ物が違う形を取っているだけだということ。

 見た目の表面的な差異に惑わされると、まるで無関係なことのように思えるけど、あえて差異に目をつぶると、共通点が見えてくる。そうしないと見えないものも確実にあるのです。

 それが出発点。「確実な真実」はどの部分なのか。大胆な仮説は必要だけど、仮説を否定する事例に目をつぶってはいけない。今回の例ではそれは「ポーちゃん」。仮定が崩されたらその反証も取り込んで根気強く事実関係を組み直していく忍耐が必要。それこそが「科学的思考」というものなのだと思います。

 そして「閉じた主観」から抜け出て、「科学的思考」に足がかりを得た希紗。表面的に違うものは実は現象の現れ方の違いにすぎず、実は同じものだということを悟ります。だからこそ、「ぶんちゃん」が見えなくなくなっても、いなくなったわけではない、そもそも「ぶんちゃん」自体が、現象のひとつの側面にすぎない。ならば、嘆くべきことなどどこにもない。

 「寒いと言うこと」も「寒いけど寒いと言わないこと」も、意識と環境の絡み合った現象の一側面にすぎないという点では同じ。だとしたら、そんなことで悩むことなんかない。

 ラストシーン、そんなことを感じました。まさしく「ああ、そうか」という感じで腑に落ちたのです。これは一周目ではとうてい気付けることではなく、長い長い時間をかけて再び「絶対少年」の全エピソードを咀嚼することによってようやくたどり着いた境地。それがここでした。

 今まで何度か別コラムで取り上げてきたこともありますが、現代科学がたどり着いた宇宙構造に関する最有力理論「超ひも理論」では、次元や環境が変わると法則の働き方も変わってしまう。しかし、それは温度によって水が氷になったりするようなものであり、実は同じひとつの出来事の一側面でしかない。

 さてさて。これは望月監督の計算のうちだったのかどうか。それもよく分かりませんが、私のこういう風変わりな理論も平然とその内側に含みこんでしまう、それがこの作品のすごさであるような気がします。


 望月監督、一瀬さん、たぶん見ていてくださっているのだと思いますが。終了後さらに半年間、おつきあいいただき本当にありがとうございました。見るほどにすごい作品だと実感させられるばかりです。3周目があるのかどうかよく分かりませんが、もしあり得るとしたら、一年ほど寝かせてから、今度は一カ月ほどで一気に見てしまう方法をやってみたいと思っています。

 いつになるのか、実現するのかどうかもよくわかりませんが、どんなに先のことになっても構わないので、いつかぜひ「劇場版・絶対少年」の第3部を見せてください。待ってます。

 とりあえず、来週から2回は、新米小僧さんに見せてもらった「しにがみのバラッド。」残り2回を取り上げる予定。
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2006年06月07日

絶対少年第25話(2周目)「常識との適正な距離を見つけなければならないこと」

 深夜のみなとみらいに集結する主人公の少年少女たち。いよいよクライマックスです。そして、まことにもっていまさらなんですが、深夜の光景を描写するにあたって、人物画像からほとんど色を抜いてしまった色指定の一瀬さんの大胆な配色に驚きました。

 いや、2回も見てるんだからもっと早い段階で気付こうよ(^^;今回初めて使われた表現でもないはずだし(思い返してみれば)

 そこはまあ、あまりにも望月監督の演出が効果的だったので、気付かなかった、ということで勘弁してください(笑)映像作品の演出としては、「何だこれは」と目を引く違和感の演出と、実はすごく大胆なのに「ごく当たり前」のように見せてしまう演出がありますよね。実は後者の方がすごく大変だと思う。何か「地味」とみられがちなこともある、望月監督の厚みのある日常描写は、こうした大胆な演出に支えられている部分もあるんだなあと実感してます。

 今回キーとなる言葉は、歩君の「常識はその時代、その場所の最大公約数にすぎない」という台詞。すでに第1話で登場していたんですね。2周目を見なければそういうことはなかなか気付かない。実は、この物語は「常識との距離のとり方」について考察する物語でもあったわけで。

 オカルト信者の方々は「常識」にこり固まっているのが科学で、自分たちの方が柔軟なんだと思い込んでいますが、これは実は逆。オカルトってのは、その時代の常識が科学の進歩や自然現象を説明しきれなくなったときに熱暴走的に出現してしまうもんなんだと思います。科学とは、人間の「常識」をとりあえず脇において、「絶対確実な事実」を積み上げていこうとする行為ではないでしょうか。そうでなければ、「相対性理論」と「量子論」という現代科学を支える大きな二つの支柱は生まれるはずもなかった。だって時間や空間が伸びたり縮んだりするとか、すべての物事は選択によって収縮あるいは分裂するとかなんて、常識からは絶対に生まれない。

 常識を妄信するのもダメだけど、常識をまったく無視するのもこれまた問題。要は常識とほどよい距離を取って常に疑いを忘れずに付き合うことが大切、ってところでしょうか。

 希紗はある程度どうなるかわかっていたけど、それでもポーちゃんをコロニーの下に持ち込んだ。科学的思考が歪んだ手前勝手な偏愛に打ち勝ったということではないでしょうか。「知りたい」という気持ちは、何かを動かす力になる。そんなわけで、次回、最終回。いよいよここまで来ました。さて、2周目の終着点、何が見えるんだろう…
posted by てんちょ at 00:19| 🌁| Comment(0) | TrackBack(0) | 絶対少年 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年05月31日

絶対少年第24話(2周目)「認識はある一定の段階で共有されること」

 とうとうここまで来てしまいました。感無量です。はて一周目にはどんなことをかんがえていたんだろう、と過去ログをひもといてみました。

http://tenchyo.seesaa.net/article/9029588.html

 実を言うと今回も視聴後の印象はほとんど同じ。ここまで来るとほとんどブレはないんですね。

 「フェアリーの視点から見る」

という趣旨のもとに始まった2周目ですが、思えばその原点は1周目のこのエピソードにあったわけで。巨大寒色系=繁殖コロニーという当時の私の説は、今も揺らいでいません。やはり、これが一番うまく説明できる気がする。

  それで今回は何を考えていたのかというと、

「なぜ巨大寒色系は誰の目にも見えたのか」

ということ。
 これまでフェアリーは見ようとした者にしか見えず、原則的には見えないものであったはずです。ところが巨大寒色系=コロニーは、誰の目にもはっきりと見えるうえに、テレビカメラにも映るらしい。この差異の原因は何なのか。

 ずっと考え続けてきたのですが、やはり
「常識で説明し切れない未知の何か」
を前提としなければ説明できない現象があまりにもあからさまに出現したから、と言うしかない。それぐらいコロニーは規模の大きな存在であったということです。

 未知の現象が起きたとき、人間の脳は、まずそれを無視しようとします。それでは説明できないレベルまで矛盾が高まった段階で初めて「異質な何か」を脳内に設定するわけですが。その「認識」の変化は徐々に起きるわけではなく、ある特定の喫水線を超えた時に突然に発動します。そのレベルは人によって様々で、これがフェアリーの姿が人によって見えたり見えなかったりする原因。

 ただし、集団繁殖のためにフェアリーが集まり、電磁波レベルが上昇していくことによって、異常現象の頻度は増していきます。その一方で、電子メールや口コミで「認識」は徐々に共有されていき、ある一定の水準に達したところで、突然「共通認識」となる。その結果上空に出現したのがコロニーだった、ということではないでしょうか。

 だからひょっとすると、コロニーはあのとき異次元からやってきたりなんかしたのではなくて、もっとかなり前からあった。あの段階で誰の目にも見えるようになっただけ、ということなのです。ビデオカメラにも映るようになったのは「映っていないとおかしい」という認識が人々に共有されるようになったから。山の奥で一切電子機器に触れず情報も受けずに孤立して暮らしてきた人が突然このビデオ映像を見たら「何も映っていないではないか」と騒ぐかもしれません。まあ、現代日本では、どんな僻地でもそんなことはあり得ないわけですが。

 だからおそらくは、コロニーの存在は我々にとって予想以上に曖昧なもの。姿は人によってかなり違って見えるはずです。おそらくはあのメカっぽいコロニーは希紗の目に映るものを代表して見せているだけで、歩君にも理絵子にもマッキーにもかなり違う姿が見えているんでしょう。描かれることはありませんでしたが。
posted by てんちょ at 23:55| 🌁| Comment(0) | TrackBack(0) | 絶対少年 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年05月24日

絶対少年第23話(2周目)「分かったと思った瞬間に思考が止まること」

 お待たせしました。2週間ぶりです。本当はこんなクライマックスで間を空けるとマズいんだけども。申し訳ありません。

 ただ、まあ2周目もここまで来ると、見落としもだいたい回収し終わっているかな、と思ったりもして。でもやはり見るたびに何がしかの発見はある。さすがです。

 で、まず最初にひとつ。本気ではなくて半ば冗談ですが。
 フェアリーたちは、
「今後しばらく大規模な電磁波障害が発生する可能性があります。ご注意下さい」
と告知するために人間とコンタクトを取ろうとしていた、という可能性。

 それじゃ「銀河ヒッチハイクガイド」ですがな(^^;いや、それはないですよね。でもまあ、フェアリーたちが異常なほど人間のコンタクトに熱意を見せる理由は、人間の側からするとすごくくだらないものたったり、理解しがたいものだったりするかもしれない。「異質な存在」であるというのはつまりそういうことでしょう。

 このエピソードでは、少し特異な構成がとられていて、横浜上空に現れた飛行物体を追いかける通俗的な民放特番と、それを見つめる主人公たちの姿が入れ子構造で描写されています。

 そしてこの特番の中に登場する自称専門家の一人が「宇宙人は人間となんら変わらない存在だ」と断定している。「自称専門家」たちは非常に俗悪に描かれていますから、制作者の意図はまったく正反対だと考えていい。そもそも環境のまったく異なる世界に生きるものが人間と価値観を持つとしたらその方が不自然であるわけで。

 本放映時も指摘されていましたが、今回登場するテレビ内のコメンテーターたちは極めて不快。なぜならとうてい理解できるとは思えないわずかな量の情報で、自分の都合のいい方向に結論を下してしまっているから。どこにそんなことを結論できる根拠が?

 何かを「分かった」と思った瞬間、我々の脳は考えることをやめてしまいます。それは残念ながら科学的思考とはいえない。

 これはうちの大学時代の恩師の受け売りなのですが。多くの神話伝説は、世界の姿をつじつまの合う形で説明するための方法として成立してきました。もちろんその大半がその時代の人々の生活基盤に基づいた推測で成り立っているわけで、何か具体的な根拠があるわけではなかったのですが、何しろ分かることが少なかったので、「推測」で話を組み立てても特に不都合はなかったわけです。こうして「神話」が生まれました。

 人類の発生以来今までの大半の時代はそれでも良かったのですが、人々の生活が進歩し、情報のやりとりされる範囲が拡大されてくると、それでは成り立たないぐらい矛盾が拡大してくる。そこに科学的思考の源泉があります。矛盾を整理するためには、「間違いなく事実である」といえることを見つけ出し、それ以外のことを「分からないこと」として判断保留にするしかない。「間違いなく事実である」ことを足がかりにして地道に足場を積み上げていくしか、理解する方法はないのですから。

 そのあたり、注目しながら最終盤の主人公たちの行動を分析していきたいと思います。
posted by てんちょ at 18:16| 🌁| Comment(0) | TrackBack(0) | 絶対少年 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年05月23日

「絶対少年」と「ひぐらしのなく頃に」

 えー望月監督、すみません。

 何のことわりもなく、「絶対少年」2周目を一回休んでしまいました。もう2周目もクライマックスだし、これ、結構読んでいる人の多い企画なんだけどなー。うーん。すいません。

 とりあえず、明日には何とかするようにします。もう本当にあとひといきですからね。がんばります。

 で、「絶対少年」の2周目を見ていると本当に複雑な気分になってしまうのが「ひぐらしのなく頃に」。みなさん、絶賛の嵐なんですけど、これ、本当におもしろいですか?

 まず田舎が舞台だというのにとても田舎には思えず、とても田舎にいそうもない萌えキャラが何のフォローも工夫もなく描かれ、ホラーの雰囲気を台無しにするドタバタな描写と崩れキャラが不用意に描かれる。

 確かに「絶対少年」の美紀は緑色の髪だったし、冷静に考えればこんなキャラ、田舎にいるとは思えない。しかし、田舎の空間が綿密に描かれることによって、俄然説得力が生まれてくる。

 超自然的な描写は、日常の克明な描写の上に乗ってこそ説得力を持つわけであって、いきなり紫色の髪の少女がギャルゲーの語り口でわざとらしくしゃべった日にはまったく台無しもいいところ。

 本当に残念です。「ひぐらしのなく頃に」が望月監督版で見られたらどんなに良かったか。きっととてつもない傑作になったであろうと、ガタガタな現行版を見ながら無念さを感じずにはいられません。

 あ、望月監督からまたまた「教育的指導」があるといけませんのでフォローしておきますが。「ひぐらしのなく頃に」の企画段階で望月監督が参加しておられたのは事実ですが、あくまで「シリーズ構成」役として。監督ではありません。だから、これはまったくの「あるはずもない」願望。

 シリーズ構成としての望月版だとしても、現行版よりははるかにすばらしかったであろうことは容易に想像できますけどね。「ひぐらしのなく頃に」という作品、確かにストーリーは魅力的。適切な演出で語られたとしたら、それはもうすばらしいことになったと思うんですが、よくもここまでひどい演出ができたものだと思う。原作者は、何が気に入ったんだろう?
posted by てんちょ at 23:54| 🌁| Comment(2) | TrackBack(0) | 絶対少年 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年05月09日

絶対少年第22話(2周目)「自分の脳の癖を自覚することが理解の第一歩であること」

 先日、本体サイトの10000ヒットについて触れましたが、おかげさまで無事に達成。該当者は「ゆず日記」の柚枝さんでした。おめでとうございます!それで、柚枝さんから先週の「絶対少年」に関するコメントについてメールをいただきました。今回のエピソードについても大変参考になると思うので、今回はご紹介させていただきながら、話を進めていくことにしましょう。

ところで先日の「絶対少年」21話の感想で述べられていた日本人の脳の話ですが高校生の時にこの角田先生の本でレポートを書いたことがあるので懐かしくよませていただきました。この「音をどちらの脳で処理するか」ということについては最近自分でも思うところがありまして。

私は音取りが得意です。この得意分野を生かして耳コピでMIDIを作ったりしているのですが、歌の場合歌を歌っていても実は全く歌詞の意味を理解していないことに気がつきました。どうもメロディーを重視するあまり、歌詞を言語でなく音声ととらえているようなんですね。だから外国語の歌の歌詞も聞き取ることができます。むしろ外国語の歌の方が意味がわからない分、より音声として聞き取りやすいみたいです。


 今回はじわりストーリーが動きはじめました。1周目にも触れていますが、次郎が描いた2枚の「理絵子像」と

「選ばれたのではなく選んだ」

 という台詞が重要な意味をもってくることになります。自分より大きな存在を信じ、その存在に「選ばれた」と考えるのは一見謙虚なようですが、選民意識を生みやすく非常に危険。もし大きな超存在がいたとしても、それが自分たちのことを気にかけると思うのは傲慢にすぎます。そんなはずはない。人間がバクテリアのことを気にすることはありえないのと同じ。それがいいとか悪いとかではなくて、あまりに違うから。人間とフェアリーもまた同じであるはず。

 ならば見えたり見えなかったりするのはフェアリーの側ではなく人間の側に原因があると考えるのが自然でしょう。人間の個体差・認識の差異とはすなわち脳の特性の差異とイコールであるということになります。それが「選ばれたのではなく選んだ」ということ。つまり選んだのは神でも超存在でもなく、「私の脳」だというわけです。

柚枝さんの例が大変興味深いのは、自分の「認識」の特性に注目し、具体的に検証することによって、逆に世界における自分の立ち位置が浮かび上がってくるということ。「主観」を自覚することによって初めて、われわれは「客観」を手に入れることができるのかもしれません。

 これを先ほどの角田先生の話に照らし合わせると私の場合はメロディーも歌詞も右脳だけで処理しているということになります。友人に聞いたところ、好きな歌は歌詞がいいから(つまりメロディーよりも歌詞重視)といっていたので普通はメロディーは右脳、歌詞は左脳で処理しているのでしょう(もしくは左脳のみか?)

理由を考えてみたところ、どうも利き手がぐちゃぐちゃなことが少なからず関係しているような気がします。私はエンピツとお箸は左なんですが、ほかは右なんですよ。ほっといたらいつのまにかそうなっていたそうで。だから変人とかいわれるのかなー?(笑)まあ、これもひとつの才能といったらそうなのかもしれませんけど。


 次郎の描いた2枚の「理絵子像」が端的に示していると思います。極端なキュビズム的抽象線に変換された理絵子と実物よりやや美化ぎみに描かれた具象画の2タイプ。どちらも人間の「主観」の幅を象徴的に示す好例といえるでしょう。人間の脳は、それぐらい大きな「認識」の幅を持つわけです。

 まずは自分の脳が見ている存在が絶対ではないことを自覚し、その脳の癖を把握すること。遠回りに見えますが、これが最終的には相手のことを知るためにも最善の方法と思われます。なぜなら、フィルターの色を知れば、その色を取り除いた対象の姿を推測できるはずだから。フェアリーの場合、数多くの事例から検証するに、見ているのが幻影ではなく、確かにそこに何かがいる、それは確かなのです。もちろん、自分が見えただけでは何の証拠にもならない。他人の主観とつき合わせて検証することは当然必須ですけどね。それが、この作品が最終的に到達した「科学的思考」というものの意味かもしれません。
posted by てんちょ at 13:26| 🌁| Comment(0) | TrackBack(0) | 絶対少年 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年05月02日

絶対少年第21話(2周目)「異質なものとの出会いが脳の異なる部位を刺激すること」

 「コミニュケーションの困難さ」についての考察が続いています。1周目もこのあたりが一番しんどかった記憶があります。まあ、マッキーがいくらやる気になったからといって突然関係がうまく回りだしたらうそくさいわけで、こういう不毛なすれ違いを描くエピソードはどうしても必要だったわけですが。

 結局、同質な共同体の中でも意思疎通は大変に困難。異なる価値観を持つ世界とのコミニュケーションならばなおさらのことです。でも、じつはこのふたつは同じ意味なのであって、「相手のことをよく理解している」という錯覚がコミニュケーションの齟齬を生み出す。つまり「相手を理解できる程度には限界があり、常に誤解がつきまとう」ことをよく理解しておかないと痛い目をみるという点で、このふたつは実は同じ問題であることがよくわかります。

 で、今回は前回に続いて「言語と脳の関係」について考えてみたいと思います。言語というソフトウェアは、脳というハードウェアを規定し、時に異文化間で大きな断絶を生み出してしまいます。

 日本人は「虫の声を聞く」とよく言いますが、これが我々が想像する以上に外国人には理解できないことのようなのです。それはたぶんセンスの違いとか文化の違いとかそういうことだろうと思ってしまいがちですがそうではなくて、たとえば日本人と西洋人では虫の声を聞くとき脳の認識する部分がまったく違うらしいのです。日本語を母国語として育った人は右脳で「言語」として虫の声を聞くらしいのですが、西洋人は左脳で「音声」として聞くらしい。だから、日本人には「虫の声が聞こえる」と思っても、西洋人にはさっぱり聞こえないということがあるらしい。単に関心がないとかそういうことではなくて、本当に他の雑音に混じってしまって聞こえないらしいのです。くわしい話はこちらで紹介されています。

http://www2s.biglobe.ne.jp/~nippon/jogbd_h14/jog240.html

 さて、ここでフェアリーのことを考えてみましょう。フェアリーのコミュニケーション手段は音声ですらなく、たぶん光と電磁波。もちろんお互いの意思疎通が取れる規則立った体系はできているでしょうが、そのソフトウェアは、人間の言語に変換するのがほとんど不可能であろう代物であり、仮に変換できたとしても、日本語における「虫の声」のように、結局不可視の部分ができてしまう。

 ではフェアリーとの意思疎通は不毛であるのかというとそうではなく、「違う」ということを前提にすることで初めて見えてくる領域があるはず。その部分を足がかりにして少しでも理解しようとする行為が世界を豊かにしていくのではないかという気がします。

 「違う」ことを前提にして他者の前に立つとき、脳は今までと別の領域を働かせることになるのですから。それは「英語で考える」こととそう遠くないことであるように思います。

 「違い」を前提にして分かることもある。先述の虫の声のエピソードの場合、3日ほどたって、ようやく西洋人の側でも虫の声に気付くことがあるそうです。
posted by てんちょ at 01:51| 🌁| Comment(0) | TrackBack(0) | 絶対少年 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年04月25日

絶対少年第20話(2周目)「人間は言葉でつながるものであること」

 深山美佳は結局何で出てきたんだろう、と釈然としない気分が残っていた1周目だったのですが、この2周目の視聴で、やっと納得できました。

 主要登場人物が必ずしも、クライマックスに一堂に介する必要もないし、事件に対する関わり方の濃度は人によってさまざま。美佳の場合は

「他人に何かを伝えるためには言葉を使わなければだめだ。親しい人間ならば、言葉を介さなくても理解してもらえると期待するのは幻想にすぎない」

という意味のことを正樹に伝えます。もちろん美佳のセリフはこんな固いものではありませんでしたけど、より咀嚼した言い方をするならばつまりはこういうこと。

 「ぶんちゃん」の破壊を契機に完全に崩壊状態にあった希紗を中心とするメインキャラの人間関係が少しずつ回復し始めるのは美佳の言葉を契機としてのことでした。そういう意味では、美佳は横浜篇に欠かせない重要なキャラクター。最終盤の大コロニー消滅シーンでは、ベランダから一市民として眺めるだけだった美佳ですが、誰もかれもがみなとみらいに駆けつけていたら、それはいくらなんでも不自然にすぎるというものでしょう。

 この作品は、従来のストーリーシステムに対する望月監督の批評的側面も併せ持っています。古典的なプロットに対する「アンチテーゼ」が、「絶対少年」の推進システムでもあるわけです。

 そして今回美佳の言葉によって注目せざるを得なくなるのが

「人間は言葉を使ってコミニュケーションを取る存在である」

という定義。もちろん言葉は完全ではなくあいまいさを併せ持っており、時にトラブルの種となります。しかしトラブルを解決するためにも必要なのはやはり言葉。人間はどうあっても言葉から逃れられません。何しろ人間の脳もまた、言葉によってプログラムされているわけですから。日本語を使う時と、英語を使う時で脳の働く部位がまったく異なるという事実は象徴的な事柄ではないでしょうか。

 英語と日本語の違いを熟知していなければ、データの変換はおぼつかないでしょう。機械的に意味を置き換えていくだけでは、翻訳ソフトのように意味不明な文章を生み出すばかりです。

 それでももちろん、翻訳という作業を通して、ある程度構成の異なる言語体系の脳同士が意思疎通を図ることは十分可能です。

 しかしフェアリーはどうか?少なくとも言葉からは縁遠い存在に思えます。最終的に言葉に回帰せざるを得ないとしても、ひとまずは言葉の限界を自覚する必要があります。それなくして、言葉の力を過信すると、「呪返し」に遭う可能性があります。

 須河原が不注意に寒色系を「マテリアル・イーヴル」と名付けてしまったのは明らかな過信でした。その傲慢な行為によって須河原は自らの放った言霊に囚われてしまったといえます。それが、最後の最後で須河原が決定的に間違ってしまった原因かもしれません。
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2006年04月19日

絶対少年第19話(2周目)「肩書きのイメージが人を作ること」

 今回は、ある意味正体不明な画家・羽鳥次郎についてのエピソード。1周目にはほとんど触れませんでした。ある意味、最初には非常に重要な役割を担うように見せつつ、結局ほとんど物語に踏み込んでこなかった次郎。1周目には結果的にほとんど無視してしまいました。それでも結果的にはほとんど問題なかったわけだけど…

 2周目にこうして見ていて、ようやくおぼろげに彼の置かれた立場がわかってきたかな、という感じです。結局、彼は直接的にフェアリーのあり方に介在してくるわけではないのだけど、傍証的にフェアリーと人間の脳の認識についてのイメージの補強をしてくれる存在、そんな風に感じられました。

 羽鳥次郎と恋人関係にあった田菜のコンビニのマドンナ・藤堂麻子さん。今回唐突に登場し、次郎と再会を果たします。まあ、私の周辺にも今ひとつはじけずくすぶっているアーチストというのはたくさんおりまして、次郎のイメージは容易に分かるのですが(まあ、いくらなんでもホームレスではないけれどね)、朝子さんの指摘は少々酷なのではないかと。

「頭の中でイメージする芸術家を演じて酔っているだけだ」

というわけですが。芸術家などというあいまいなものに賭けるのであれば、それは先例に従うしかないでしょう。もちろん「芸術」とは「独創」なのだけど、早々に独創は生まれてこないわけであって、過去のケースの模倣を土台にして自分自身を組みたてていくしかない。無から何かを生み出すクリエイターという作業においては、肯定的に取り上げるにせよ否定的に取り上げるにせよ何か叩き台となるものは必要なはず。

 「生み出したものが結果として芸術家と呼ばれることもある」というのはそれはまあ理想論だろうけど、こと芸術家に限っていえば、そんな夢のような幸福なケースはまれなわけであって。生活の心配がないお金持ちで、余技としてやっていた芸術活動がたまたま評価されてしまった、なんてケースならそれもあるでしょうけど、それはかなり特異な例でしょう、やっぱり。

 芸術家は基本的にお金を生み出さないけど、時に大きなお金を生み出すこともある。芸術家になろうとする者は、「お金を生み出し得た」先例の巨匠をとりあえず模倣してみるしかない。

 これは私たちの脳の限界ではありますが、それを嘆く必要はないのだと思う。「限界」というよりはむしろ「癖」という方が正しい。叩き台となる基準をあらかじめ持っていたほうが、そこから別の新しい何かをより効率的に引き出すことが可能になる。

 これは本筋とは関係ないのですが、フェアリーたちの視点から我々人間の特性を眺めることによって、初めて見えてくる事柄。ある意味、「科学的思考」というのは、人間の主観を離れ、他者の視点から人間の特性を観察してみる行為であるような気がします。

 そのとき、ごく自己中心的な「悲しい」とか「うれしい」とかいう感情はすべて無効となり、新しい自画像が見えてくる。それは、情緒に左右されないという意味でより強固なイメージであるはず。

 「科学的思考」とはつまりそういうことなのではないか。そんな気がしますが、そのあたり、希紗たちの視点から、次回以降、もう少し見ていく必要がありそうです。
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2006年04月10日

絶対少年第18話(2周目)「衝撃が飛躍の一歩を生み出すこと」

 「ぶんちゃん」崩壊の衝撃エピソード。こうしてもう一度2周目に注意を払って見てみると、「ぶんちゃん崩壊」はアクシデントだったのではなくて、いつか必ず起きたことだったことが分かります。

 1周目にはほとんど予測していなかった事態だったので、それはもう呆然としてしまったものだけど、今回は筋立ては分かっているので、落ち着いて演出を追っていくことができました。

 どっしる&しっしんとぷんちゃんが対面した時、異常音を発し、闘って死んだように見えたものでしたが、今回じっくり観察してみると、「闘った」というのは明らかに間違いで、どちらかというと、強い磁石に釘が引きつけられるような、より物理現象的要素が強いように感じられました。

 やはり「三つ組データ交換での生殖活動」という推理は間違っていなかったんではないかと思います。このエピソードの冒頭で希紗の作っている魚オブジェの背びれにバックアップデータを残すシーンも、どこか「サケの産卵」めいたものに見えますし。

 結局、ぶんちゃんは、希紗の思い入れとまったく違う独自の論理で動いていることが分かります。希紗の思い入れはまったく自分勝手なものであり、ぶんちゃんはそんなことは知ったことではない。いつかどこかの時点で、破綻は訪れる。

 でも、本当に相手を理解するためには、「分かったつもり」を突き崩されて、その衝撃を乗り越える必要があると思うんですよ。相手のことを分かっているはずがそれは自分の勝手な思いこみだった。見事なまでのコミニュケーション失敗。それはそれは大変なショックだけど、それをなぜなのかと考え、何が本当の姿なのかを考え始めたとき、おおきな一歩が踏み出されるのだと思う。希紗はそれはそれはしんどい目に遭いましたけど、それだけの価値はあったということなのでしょうね。

 次回以降はそのキーとなる「科学的思考」をちょっと考えてみたいと思います。
posted by てんちょ at 23:26| 🌁| Comment(0) | TrackBack(0) | 絶対少年 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年04月04日

絶対少年第17話(2周目)「コミュニケーションは原則的に困難であること」

 というわけでお待たせしました。引っ張りまくった17話です。

 とはいえ、うーん。2週間引越ししながら考え続けていても、あまりすっきりとした考えはまとまらなかったというのが正直なところ。フェアリーもあまり出ませんでしたし、地味な回ですよねえ。

 1周目の時も、結構迷っていたみたい。

http://tenchyo.seesaa.net/article/7033323.html

 今回は、ほとんど「青春ドラマ」で、しかも仲の良かった若者たちが相互不信に陥っていく回。まあ、「痴情のもつれ」が絡むと得てしてこういう不条理な展開になるものですけどね。これまで携帯メールで話し合ってきたのに、直接会ったとたんにこれです。だから、メールや携帯が悪いってことじゃあないと思う。携帯とかメールは人間のコミュニケーションのあり方を変えてしまったけれど、人間は本質的に「分かり合えない」ということでしかないんだと思う。携帯やメールを使うとより「分かりあえる」ような錯覚が起きるわけですが。でもそれはたぶんただの錯覚。

 一見ペシミスティックすぎる意見に見えるかもしれませんが、たぶん、相手のことを理解できると思うこと自体、傲慢なんだと思う。この話、前にもしましたっけ?おそらくは、他人のことは理解できない、という覚悟をもってより謙虚に接することができたならば、人間と人間の関係は、より自由になることができるんだと思うのですよ。

 人間同士でさえこれほど難しいのだから、まったく未知の存在であるフェアリーを理解できると思う方が思いあがり、ということでしょう。結果として、「ぶんちゃん」をペットか擬似家族のように扱っていた希紗は、手痛いしっぺ返しを受けることになってしまう。2周目の今から見返してみると、そのあたりは非常によくわかる。

 相手を理解するためには、相手にベタベタと密接することではなく、一歩引いた視点から見ることが必要なのではないでしょうか。それがおそらく、この作品の最後に提示された「科学的思考」というものの実体だと思う。

 そういう視点から見ると、意外と理絵子と成基の諍いは、それほど難しいものでなくなってしまうのかもしれませんが。

「何だ、痴情のもつれじゃないか」

という感じで。それがひょっとすると、本当の「理解」の第一歩なのかもしれません。
posted by てんちょ at 23:20| 🌁| Comment(0) | TrackBack(0) | 絶対少年 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年03月18日

絶対少年第16話(2周目)「価値観は差異を知る手がかりになること」

 「しにがみのバラッド。」第3話は後ほど。どうせ短距離走ですし、土曜日はしばらくこのまま2本立てで行きます。それにしてもまったくの偶然ですが、「絶対少年」歩君再登場の回と「しにがみ」ゲストキャラ担当が豊永利行さんの回が同じ週になろうとは!

 本シリーズ最大のさわやか男前キャラ・歩君再登場。事実上、田菜・横浜を通して最も主人公らしくふるまっていたのは彼でした。1周目でも再登場は本当にうれしかったけど、2周目でもやっぱり彼が出てくるだけで何かワクワクしてしまいました。出てくるだけで何かやってくれそうな気がするからでしょうね。彼の場合。萌え的な意味でもアイドル的な意味でもなく、ゼロから作り上げられたキャラクターとしての歩君のことが、本当に好きになったみたいです。徹底した監督主義・キャラ萌え嫌いの私としては、これは本当に珍しいことで、むしろこういうののほうが、クリエイターとしてはうれしいものなんでしょうか、望月監督。

 それはさておき、今回何に注目して視聴していたのかというと、

「なぜ暖色系はオカカババアをわざわざ連れて来たのか」

 ということ。オカカババアは既に暖色系フェアリーの端末に近い存在となっていたはず、という話は以前にしました。未見の方はこちらを見てください。

http://tenchyo.seesaa.net/article/10144080.html

 でも、なぜ?
 たぶん、暖色系は「直接的」に人間を観察するのを非常に嫌うようです。常に自分たちと人間との中間にある「媒介者」を間に置いて、間接的に観測するのを好む傾向がある。それをなぜかと問うのはほとんど無意味。フェアリーたちは説明などしてくれないし、仮に説明を聞いたとしてもたぶん理解できないでしょう。それが異質な相手と出会うことの意味。

 もちろん田菜には「わっくん」がいたんだけど、わっくんを横浜に持ってくるわけにはいかない。長年のデータが蓄積されたモニタリングポイント(観測拠点)を撤去して別の場所に移すようなもの。意味がないばかりかせっかくのデータの蓄積を無に帰す有害な行為ですらあります。

 ならば、偶然向こうから飛び込んできて同化したオカカババアを使おうということになったのでしょう。まさか100キロも歩かせたら生体は大きなダメージを受ける、などということはフェアリーたちは知らなかったでしょうから。結果としてこの媒体投下はほぼ失敗。その後は「しぶしぶ」直接姿を見せるようになります。

 これに対して寒色系は徹底した「直接観測」。超ダウナーな希紗を観測して何が面白いのかとわれわれ人間からすると考えてしまいがちですが、もしフェアリー(特に寒色系)が電磁波を主体に知覚しているとすれば、大量の電磁波を発している希紗はとても活発に活動しているように見えるのかもしれません。

 だからこそ、マッキーからの「脅迫」メールに激しく怯えた希紗の姿に気付いた「ぶんちゃん」は、変化をもたらした情報がなんなのか知りたくて様子を見に来たのでしょう。希紗が考えているように心配して様子を見に来たわけでは決してないはずです。
posted by てんちょ at 18:10| 大阪 ☔| Comment(0) | TrackBack(0) | 絶対少年 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年03月11日

絶対少年第15話(2周目)「見えないことが存在を意識させること」

 夕方には更新するつもりだったんですが(^^;いやあ、時間のたつのは早い。引越し準備の片手間となると、マジで忙しいですね。

 でもまあいちおうちゃんと見ましたよ。前項の「しにがみのばらっど。」にもつながりますが、望月監督が相当に注意を払って「生理的感動」から遠ざかろうとしているのが、こうして2周目に見ているとはっきりとわかります。評判を呼んだ田菜篇でしたが、監督的には「こういうのはよくない」という思いがあったのだと思います。

 横浜篇は途中、フェアリーが出る割合が非常に低くなる回がいくつかあるのですが、今回もそんなひとつ。希紗の部屋の中をふよふよと飛ぶ「ぶんちゃん」のシーンがあるだけで、通常の暖色系・寒色系フェアリーが一切出てこない。

 「ぶんちゃん」は希紗によって外に連れ出されますが、常に巾着袋の中にあって出てこないので、見えないまま。そのくせ、本物なのかどうか分からない光球の写真が、ネット上に出回っている。
 
 そして須河原晶が登場。画面にフェアリーはまるで登場しないというのに、登場人物たちはにわかにフェアリーに心をかき乱される。いや、画面にいないからこそ、気になって仕方がない。つい追いかけ、執着したくなる。結果として、少年少女たちの人間関係そのものが壊れていってしまうわけだけど。

 とりあえず一度は見た。でもその後はそうたびたび見ることはできない。それだけに「見たはずだ、いたはずだ」という不安感が膨れ上がり、追いかけずにはいられなくなる。だからこそ逆説的な話ですが、フェアリーは出てこないんですね。

 「ぶんちゃん」は、そんな希紗たちの関係をどのように見ているのでしょうか。「青いのう」なんてジジイみたいな感慨は当然抱かないわけで(^^:
寒色系は、あまり集団行動が見られませんね。「わっくん」という目だった存在を置いて集団で観測を続けていた暖色系と対照的。

 でも、ひょっとすると、たくさんの固体が個別に人間の家庭にもぐりこんで、個々がじっと単独で観察しているのかもしれない。希紗と違って大半の人はフェアリーのことを見えませんから、気付くこともないわけですが。
posted by てんちょ at 23:58| 大阪 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | 絶対少年 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年03月04日

絶対少年第14話(2周目)「意識が視覚を方向付けること」

 名古屋まで家探しに行ってきました。おかげさまで、1日がかりで結構満足できる物件が見つけられたかな。そんなわけで、少々本日は短縮気味になりますがお許しを。まあ、視聴1回目に大きな発見があったエピソードというのは、やはり再見してもそれほど大きな発見というのはないのですよ。

 今回は、やはり成基の

「最初は見えなかったのに、希紗が言うようなものをイメージしたらいきなり見えた」

 というセリフがポイントです。前回も、「脳と認識」という視点からチェックを入れていますが、やはりこのセリフは横浜篇でも屈指のかなり重要な場面に思えます。

 希紗は「ぶんちゃん」に形を与えてしまいますが、それは普遍の真実ではなく、ほとんどの人には何も見えないし、見える人には同じように見えるわけではない。ただ、イメージを相手に伝えることで、かなり近い図像を共有することができる。

 それはどういうことかというと、希紗の脳がフェアリーに対して反応したイメージを希紗自身が言葉で伝達することによって、成基の脳の中にも比較的近いイメージを復元することができる。成基の脳は、そのイメージに近いものを探そうとして意識の傾斜を起こします。いったんそれに適合すると推察できる図像を発見すれば、成基の脳の視野は、今後もその正体不明の物体を同じ形でロックオンし続けるでしょう。もちろんあまりにも漠然としているイメージは時間経過と共に情報劣化を起こしやすいのですが、「名前」というラベルがあればイメージを固定し続けることが容易になる。それが「ぶんちゃん」というものの実像。

 おそらく成基だけは、希紗が見た姿と完璧に同じではないものの、かなり近い姿の「ぶんちゃん」を見ることができるのではないでしょうか。

 だから希紗からイメージを伝えられていない正樹は、遠目に二人の姿を発見して、ただの光球しか見えていない。ひょっとすると、最後の最後まで、光の球しか見えていなかった可能性もないとは言えないでしょう。まあ、この先2周目が進んでいくと意見も変わるかもしれないけど、今のところの見解はそんなところです。
posted by てんちょ at 23:09| 大阪 ☀| Comment(2) | TrackBack(0) | 絶対少年 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年02月25日

絶対少年第13話(2周目)「知覚は環境に引きずられること」

 例年になく寒い冬でしたが、ようやく春の兆し。大阪は今日なんかポカポカ陽気。コート着ていると汗ばみます。花粉症でこそないもののアレルギー持ちの私は春は受難の季節。それでも、冬よりはずっと好き。春はいいもんです。

 そんな春の到来とともに、「絶対少年」2周目も横浜篇へ。作品は冬のまっただ中。ああ、やっぱ間に合わんかったか(^^;

 毎週1本ずつ放映している限り、作品中と現実の季節を一致させるのはほぼ不可能なようですね。田菜篇が7〜9月、10月休み、横浜篇が11月〜1月という放映スケジュールならギリギリOKかもしれんけど、無理だろうなあ。3周目をやるとしたら、そういう風に現実の季節にシンクロさせる手もアリかもです。それで何かに気付くかどうかははなはだ不明確ではありますが。

 さて、ここで注意したいのは、本放送時には、田菜篇、横浜篇がはっきりと分割されていることはあえて伏せられていたということ。一時的に舞台が横浜に移ったけど、また田菜も出てくると何となく思いこんでいましたよね。我々の大半が。

 そんなわけで、初見時にはかなり不注意だったようで、相当に多くの情報を見落としていたことに気付きました。

 「暖色系に群がる複数の寒色系」
 「理絵子が見たのは寒色系だが、背後には暖色系が飛んでいる。ただし理絵子は気付いていない」
 「希紗が初めてぶんちゃんと出会った時、最初に見たのはあくまで光球」

 こうしてみると、暖色系と寒色系の交配活動がかなり早い段階から進行していたことがわかります。両フェアリーの交配活動は大量の電磁波を発生させ、田菜のような田舎ではほとんど変化がありませんが、電子機器の多い横浜では大きな影響が現れるということでしょう。何しろこのエピソード、信号トラブルから始まるのですから。

 2周目で一番注目したのは、やはり希紗とぶんちゃんの出会い。最初からあの飛行船みたいな形が見えていたのではなくて、光球だったというのはやはり重要。しかもこのとき、希紗が何をしていたのかというと、ゴミ捨て場で金属片を漁っていました。芸術系の素養がある希紗は、自作オブジェをたくさん作っています。金属片はその手のオブジェの材料になるわけです。つまり希紗はもともとそういうメタリックな素材に関心が高く、希紗の脳はその方面に特化していると言ってもいいでしょう。

 そんな希紗がめぼしい素材を探してゴミ捨て場で金属片を漁っている最中に出会った寒色系フェアリー。当然のことながら、希紗の関心の傾向がフェアリーの見え方に大きな影響を与えたであろうことは容易に想像がつきます。そんなわけでフェアリーは、希紗の作るオブジェと似通った見え方をするようになった。もちろんフェアリーの中に「ぶんちゃん」的な要素がまったくないわけではない。希紗の脳の癖が、メカニカルな部分に反応した結果、あのような形になったということでしょう。ただし、それはフェアリーのすべてではなく、ほんの一部が見えているにすぎないことは注意しておいたほうがよさそうです。

 もし希紗がお料理大好き少女で、八百屋で買い物をしている最中にフェアリーと出くわしたら、グリーンモンスみたいなフェアリーが見えたかもしれません。

 ともかくも希紗の家に居候することを決めた「ぶんちゃん」。希紗は迷い猫を拾ったような気分でいるようですが、たぶんそれは大間違い。電子機器がつけっぱなしで電磁波が豊富なこともあるでしょうが、「ぶんちゃん」は希紗を観察することに決めたようです。それがどんな関心に基づくものなのかは、われわれには知り得ないことですが。
posted by てんちょ at 22:02| 大阪 ☁| Comment(4) | TrackBack(0) | 絶対少年 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年02月19日

絶対少年第12話(2周目)「影は見ることができること」

 というわけで本日は「絶対少年」の2周目。「蟲師」は火曜日になると思います。ご容赦を。

 しかし、第12話といえば田菜篇の最終話。それなりに気を引き締めて行きませんと。

 とはいえ、美玖の変化についての考察は2周目第2話でやってしまっておりますし。ここまで消化してきて、その後特に意見の変更はありません。たぶん、そういうあたりでいいんじゃないかと思います。美玖の脳が「フェアリー関連」の領域を遮断したと。その結果としての性格一変でしょうね。

http://tenchyo.seesaa.net/article/10144080.html

 第12話。感動的ではありますが、言うべきことは少ない。やはりここで終わってはいけない話だということを実感させます。感動によってあらゆる違和感を感じさせる要素が見えなくなり、表現を矮小化させてしまうことになりますから。むしろ、それは制作者の意図を大いにゆがめることになるでしょう。

 何か言うべきことは残っているかな?そうですね。やはりフェアリーについてかな。

 田菜で多くの人たちがフェアリーを目撃しますが、それが「どっしる」「しっしん」に似ていたのは便宜的な表現でしょう。たぶん、各人がとらえた事実、須河原がスケッチした姿はかなり違います。やはりフェアリーは4次元超の空間にまたがって存在するものであり、3次元空間しか把握できない我々の脳はほとんど姿をとらえることができないし、視ることができる者も、それぞれの脳の個性によってフェアリーのある一面だけを誇張してとらえていると思います。それが人によっては「河童」だったり「憑物神」だったりするというわけ。もちろん「どっしる」「しっしん」とて正解ではない。それは誰にもわからないことでしょう。だから、歩君も美紀も「河童がいてもいい」と言ったわけです。画面からはフェアリーと河童は遠く離れたものに見えますが、実は本質は同じだということですね。

 では、実際には何が見えたのか。なぜこれまで見えなかった人にも突然フェアリーが見えるようになったのか。

 こういう場合、自分の所属する次元より低い位相の話に移し替えるとわかりやすい。

 2次元の世界の上空に、我々3次元世界の人間が浮かんでいるとしましょう。当然、2次元世界の生物には、我々を認識することはできない。
 では2次元世界に我々の存在を認知させる方法は何でしょう?

 ひとつには2次元世界の地表に立つこと。その場合、あなたの姿は、靴底の形そのものとして2次元世界の生物には認識されることでしょう。それはあなたの一面ではありますが、あなたそのものではない。

 あるいはこういうことも言える。

 あなたが2次元世界に対して身体を水平の状態で浮かべ、背後から強い光を当てる。当然のことですが、2次元世界にはあなたの影が映る。あなたの影は、あなたの靴底の形よりもあなた自身には近い。しかしあなた自身の実体ではなく、2次元世界の生物には触れることすらてきない。

 この状況がフェアリーたちの見え方に近いかもしれない。つまり、あれはフェアリーたちの影ってことですね。もし、具体的な空間ではなく、我々の脳の認識領域に直接投影されたものだとしたら、当然のことながらビデオには映らないということになる。

 それが歩君のこれまで見ていたものと同じかどうかはわかりませんが、希紗の「ぶんちゃん」とは明らかに違うものだとはいえそうです。「ぶんちゃん」は、認識すれば触れることはできたわけですから。

 まあそのあたりは、2次元とは違って3次元空間ですから、より複雑でいちがいには言えなくなるのですが。
posted by てんちょ at 23:30| 大阪 ☁| Comment(2) | TrackBack(0) | 絶対少年 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年02月11日

絶対少年第11話(2周目)「観察にも温度差があること」

 田菜篇もいよいよクライマックス。1周目はこのあたり相当に盛り上がっていた記憶がありますが、2周目になると、逆に触れるべき点が少なくなってしまう。面白いといえば面白い傾向ですね。結末を知った上で見ているので、情感を高める演出に惑わされずに、構造を冷静に分析していくことができる。これが2周目の楽しみでしょう。

 いや、もちろん感動させられる演出というのは本当にすばらしいと思うし、それが田菜篇の人気を高めた原因でもあるのだろうけど、「感動」は、背後に潜む構造を見えなくしてしまう目くらましの副作用も備えている。だから、この物語がいったいなんだったのかを本当に知ろうと思うならば、やはり2周目は欠かせないと思います。

 そんなわけで「猫踊り会場の土砂崩れ」という決定的な瞬間に向けて、すべてが収束していくこのエピソード。見た目以上に多くの情報を含んでいます。2周目のルールに沿って、今回もフェアリーの視点から眺めて見ましょう。

 わっくんは、「歩君が自分たちの世界に来る」ことを条件に、土砂崩れから人々を避難させることを承諾します。異世界との契約が非常に重いものである、というのは割となじみ深い伝承ですが、これもまた「よそ者との約束を破ると何をされるか分からない」という、人間の共同体側の他者に対する畏怖心に基づいています。フェアリーたちにとってはまるで預かり知らぬ問題。

 歩君は、自己犠牲と社会忌避、そして「過去に約束を守れなかった」という罪悪感から、わっくんとの約束を承諾してしまいます。歩君は相当な決意と覚悟をもっているようですが、フェアリーたちがその思いを理解しているかどうかはまた別問題。

 歩君が「どっしるとしっしんに頼めないかな」と言っていて、わっくんも当然のようにそれを受け入れてしまっているわけですから、初見時にフェアリーたちとわっくんを同一視してしまうのはある意味当然のことです。しかし、わっくんは人間をまねてフェアリーたちが作り出したものであり、フェアリーと意思疎通はできますが、同一のものではないということは忘れてはならないでしょう。マガモのデコイと違ってわっくんは自意識を持っていますので、わっくんが求めることをフェアリーたちがかなえることもあります。しかしそれはわっくんのことをフェアリーたちが仲間だと思っているからではなくて、わっくんが求める行動をとることによって人間たちがどのような反応を見せるか知りたいというのが本当のところでしょう。

 今回、初めて本格的に寒色系フェアリーが登場しますが、こちらは物語の前面には出てきません。不法投棄の電器類にびっしりと張り付いているところだけが一瞬見えるのみです。この段階では知りようもありませんが、横浜篇をふまえて推察してみると、暖色系と寒色系はふだんは違う環境でコロニーを作っていることがわかります。田菜では、暖色系が頭屋の森、寒色系が産廃捨て場。普段は暖色系と寒色系は関わりを持ちませんが、ごくまれに(たぶん数十〜数百年サイクル)互いのデータを交換する大規模な繁殖活動を行う。そうやって、多様性を保ってきた存在なのでしょうね。

 暖色系が「わっくん」という介在者を通して間接的に人間とコンタクトを取ったのに対し、寒色系は直接人間の居住区域に入り込み、行動をつぶさに観察していたようです。この違いもまた、興味深いです。希紗という引きこもり少女を対象に選んだのは果たして懸命だったのかどうかという気がしないでもないのですが、それこそ「余計なお世話」で、フェアリーはフェアリーなりに、希紗に対して価値を認めたということなのでしょう。それはたぶん我々にはまったく理解できないものなのでしょうが。
posted by てんちょ at 21:43| 大阪 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | 絶対少年 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年02月04日

絶対少年(2周目)第10話「デコイは彼らより我々について多くを語ること」

 いよいよ田菜篇も佳境。今から思えば横浜篇と比べてかなり構造の単純な田菜篇ですが、それは、議論の積み重ねを土台にしてエピソードを発展させていくこの作品の特性から言って当然のことですよね。まあ、その単純さがある意味敷居を低くして人気を集めた部分もあるわけですが。

 ただし「単純→複雑」は不可逆のものであって、もう一度最初からこうして2周目のチェックをしていく場合は、まるで別の作品になってしまう。あくまで1周目26話の議論の積み上げの上に、2周目の1話は乗っている。それがこの作品の面白さであり奥深さでもあります。

 確か1周目のこのエピソードでは、
「名づけることは責任を問われる行為だ」
と言っていたと思うのですが、

http://tenchyo.seesaa.net/article/5312671.html

2周目の鑑賞を終えてみると、それもまた若干不正確であったことが分かります。

 このエピソードの最後、わっくんは、「フェアリーの特定の2個体にどっしる・しっしんという名前を付けたのは歩なのだから、責任を取って自分たちの世界に来るべきだ」という意味のことを言います。当然、名づけるという行為の古来以来の「呪」的特徴がうかがえるエピソードで、私はそれがフェアリーたちの価値観なのだと思ったわけです。

 しかし、横浜篇を通過してみると、その決め付けはやはり不正確といわざるを得ません。名づけるという行為を重視しているのはあくまでわっくんであって、フェアリーたちではないからです。田菜篇の時はフェアリーたちとわっくんは一体として描かれており、どうしても同じもの(少なくとも同じ世界の住人)と考えてしまいたくなります。しかし横浜篇での、極端に異質で人間と接点の少ないフェアリーのライフサイクルを見た後では、フェアリー≠わっくんと結論づけざるを得ない。わっくんは人間世界からデータを採集するためにフェアリーたちが作ったものであり、フェアリーたちを説明するためにはほとんど役立たない。鳥類学者が観察のためにマガモの群れの中に置いたデコイのようなものです。デコイは人間が作ったものですが、どちらかというと観察対象であるマガモを模して作られており、デコイを調べたところで人間についてわかることは少ない。それよりもはるかにマガモの特徴をよくあらわしているというべきでしょう。

 つまり「名づける行為は責任を伴う」というのは、フェアリーではなくて人間の価値観。わっくんはフェアリーたちが人間を観察するために人間に似せて人間の群れの中に送り出したものです。そしてその観測行為は昨日今日始まったものではなく、かなり古い(太古といってもいい昔の)時代から行われており、わっくんの中には太古からの人間の価値観に関するデータが濃縮されて詰まっていることになる。

 「未知のものに名前を付けたならば、それ相応の責任を負わなければならない」
 古代のシャーマニズム・中世の陰陽道などにみられる考え方です。それは、我々人間の脳が考え出したことであって、フェアリーのものではないのです。命名が神秘化されるのは、命名という行為によって、あいまいなイメージが固定化され他人と共有できるようになるから。横浜篇で、希沙が見せた「ぶんちゃん」のイメージが、正樹と共有できるようになるのは、その好例ですね。

http://tenchyo.seesaa.net/article/6303131.html

 というわけで人間はどうしても「名づける」という行為に神秘的な力を感じ取ってしまうわけですが、これはインデックスがあると情報が整理しやすいという、我々の脳の「癖」が影響しているに過ぎません。まったく違う構造とライフサイクルを持つフェアリーが、そんなことを重視するわけがない。知ったことではないに違いないのです。

 古代から何度もフェアリーと我々の遭遇はあったのだろうけど、こうした価値観はすべて人間の側が勝手に考え出した解釈であり、フェアリーは何も説明したわけではないし、説明する気もないでしょう。

 しかしわっくんはデコイですから、人間の価値観として「名前をつけたのだから責任を取れ」と突きつけてくるわけです。もちろん現在ではかなりすたれてしまった価値観ですが、そんなことはわっくんは知りません。人間よりはるかに長い時間を生きるわっくんは、価値観がはかないものだということも知らないでしょうし。

 そう考えるとわっくんは本当にかわいそう。人間に模して作られているので「さびしい」と感じてしまうけれど、人間ではないので、人間の世界に属することもできない。歩君を拉致したくなったとしても無理はない気がします。フェアリーたちは、それもまた「興味深く」観察しているのでしょうが。
posted by てんちょ at 23:44| 大阪 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | 絶対少年 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年01月28日

絶対少年第9話(2周目)「異界との約束が重いとは限らないこと」

 なんか今週は極めてスムーズに来てますね。このまま月曜日のマイメロまでトントンと行きたいものです。ブログには反映していませんが、この正月から見ているアニメは週に14本にまで膨れあがっています。(もちろんこの「絶対少年」2周目は含めず)来週からしばらく
「サムライチャンプルー」も入るし。地上波で途絶えた17話以降が、来週からアニマックスでいよいよ放映なんですよ。もちろん出し遅れの証文なので、ブログには書きませんが。

 さてさて。そんな中で「絶対少年」の2周目は淡々と続けていきます。放映があるわけじゃないんだから、別にとびとびでもいいんだけど、ゆっくりと考えながら進んでいくためにも、もう一度同じスピードで見ていくことは意味あることのように思えます。

 というわけでとうとう9回目。1周目は当然のことながら、歩君をはじめとする人間のキャラクターたちの側から物語を見ていましたが、2周目はどちらかというとフェアリーの側から見るようにしています。そうやって視点を定めて、まったく別の立場から同じエピソードを追っていくと、やはりまったく別の物語が見えてくるものです。

 今回は「約束」についての物語。今回は、メインキャラのほとんどが、「約束」を交わそうとします。歩君はわっくんと「遊ぶ約束」。美紀は歩君と「猫踊りに行く約束」。拓馬も美紀と「猫踊りに行く約束」。潮音は歩君と「猫踊りに行く約束」。

 もちろんそれらはお互いに矛盾しているし、全部が履行されることはあり得ない。しかも実際に双方の合意のもとに「約束」が成立したのは歩君とわっくんだけ。美紀は歩君と猫踊りに行きたいけど「行く」という言質はとうとう取れず。拓馬も同様。潮音にいたっては本当は拓馬を誘いたいのに歩君をしつこく誘う屈折ぶり。

 人間は「約束」を重視しているらしい。「約束したことは履行されるべきだ」というのが人間の価値観。ならば当然そうするべきはずなのに、実際には履行されない約束の方が多い。潮音のように、実際望んでいることと矛盾する約束を結ぼうとする者さえいる。いったい人間にとって「約束」とは何なのか?画面外から見つめるフェアリーのそんなつぶやきが聞こえてきそうなエピソードです。

 別にフェアリーはそんな人間の矛盾した行動を良いとも悪いとも思ってはいないでしょう。強いて言うなら、せっせと餌を運ぶアリを観察している学者のように「興味深い」とは思っているかもしれませんが。

 一周目には、歩君とわっくんの「約束」は異界との「契約」であり、美紀などとの約束とはレベルの違う非常に重いものだと思いこんでいたのですが、どうやらそれも思いこみでしかないようです。わっくんが約束にこだわり約束を守ってほしいと望むのは、わっくんが「人間モデル」であるからに他なりません。それはあくまでフェアリーの価値観とはつながっていない関係。歩君がわっくんとの「約束」に重みを感じたとしてもそれは歩君の側の勝手な思いこみでしかないということでしょう。「異形のものと契約するのだから重いはず、破ったら深刻な罰があるはず」というような。たぶん、歩君がわっくんとの約束を違えたとしてもそれもまた「興味深い」事例でしかないのでしょうね。フェアリーにとっては。

 これまで急に「わっくん」に会えなくなったり、美玖を通じて情報が提供されたりしたのも、歩君の反応を見るために「条件を変えてみた」だけなのかもしれません。観測というのは、一定の反応が出るまで続けられます。それまでと異なる変化が見られたら、その観測はそこでおしまい。条件を変えて再開されることになります。

 もちろんその観測結果をフェアリーたちがどう判断しているかは我々人間には知りようもないことですし、知ったところで理解できるはずもありません。しかし、フェアリーたちに人間を観測し続けようという「意欲」があることだけは確か。そんなわけで観測はこれまでも続いてきたし、これからも続いていくということなのでしょう。田菜も横浜も、そんな事例のひとつにすぎません。
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2006年01月24日

絶対少年第8話(2周目)「見たものは解釈しなければ理解できないこと」

 人文科学的視点と自然科学的視点が併存した特異なエピソード。1周目にもずいぶんとエキサイトしたのを覚えています。
 横浜篇はどちらかというと自然科学的視点に特化していて、人文科学的視点がかなり強いのは田菜篇の特徴と言ってもいいかもしれません。何しろ、歩君のフィールド調査はあるし、埋もれた民話の採録エピソードまである。「脳と認識」をめぐるおなじみの理系的表現は今回はむしろ控えめ。

 ただ、自然科学と人文科学は断絶しているのではなくて、このエピソードを通して地続きになっているといっていいでしょう。人間が異質なものに遭遇したとき、現代では、何が起きたのかを理解するための最も重要な武器は科学です。
 しかし過去には科学の役割はこれほど大きくはなかったわけで、過去の記録をそのまま科学の目線で解釈してしまうと、不必要なノイズを拾って誤りを犯してしまう危険性が高まります。ここに、人文科学が活躍する余地がある。

 まずはその時代の情報を集め、時代がその異質な事物をどう解釈していたか、当時の目線を復元した上で、本来の目的とする異質なものに迫っていく必要があります。そうでないと、

「昔の人は迷信深かったから何でも妖怪のせいにした」

とか、とんでもない誤解をしてしまうことになる。

 本編で歩君も言っている通り、文献資料として後に伝えられたものは、話をおもしろくするために付け加えられたり、整合性を出すために修正が加えられたりしている。だからフィールド調査で、実際にその土地に伝えられている伝承を比較検討して、本来の姿を復元していく必要があるというわけです。その伝承が語っていたのは本来何のことだったのか。

 美紀が語った「猫踊り伝説」の話は、たぶん当時のリアルな「ニュース」の残骸らしきリアルな手触りがある。ただ、それが何を言っているのかはわからない。「猫踊り」は、本当に「猫が踊っていたのを見た」という話ではなくて、何か別の「不思議な体験」を当時の人が解釈した結果生まれたもの。実際に何が起きたかは、データを集めてできるだけ実像に近づけていくしかありません。

 異質な体験をしたとき、人間の脳はそれを分析し、自分のそれまでの体験の蓄積にあてはまるように解釈せずにいられない。今回、亮介が語る「河童とオカカ婆」の話はまさしくそうです。亮介は「何かを見た」ことを「河童とオカカ婆が闘っている」のだと解釈した。もちろんそれは実際に起きたことそのものではないけど、それが亮介の「脳の癖」が生んだ産物。

 実際に守屋の森に何があるのかはわかりません。フェアリーの長い活動とはまったく無関係に、ほぼ同じ長さの人間の解釈の歴史があるということなのでしょう。

 おそらく、そこにあるのはフェアリーのコロニー(横浜上空のそれとは全然違う形の)。横浜のそれが一時的なものだとしたら、こちらは長期的なもの。フェアリーの影響力の強いここでは、空間も四次元以上のものであり、その空間の影響下に入ってしまったら、戻ってこれなくなる危険性がある。
 今回のエピソードのラスト、美玖が歩君を止めて「早まるな」と言ったのは、そのせいではないでしょうか。
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2006年01月14日

絶対少年第7話(2周目)「対話は意思によってなされること」

 冒頭、いきなりどっしると語り合う美玖。どのような形でなのかはよく分かりませんが、美玖がある程度フェアリーと意思疎通が取れていることが分かります。それは美玖が2年前に「神隠し」にあって、脳の一部がフェアリーたちの世界に適合するようにフォーマットされてしまったから、というのはこれまで何度か触れました。それが、美玖を年相応の幼女らしからぬ、異質さを感じさせる存在にしています。もちろん、どの程度フェアリーのことを理解できているのかは美玖にも分かっていないでしょう。そもそもまったく構造の違う存在同士だから、100%理解するのは絶対に無理。ぼんやりと大意をつかむのが関の山のはず。それでも、フェアリーたちが(いささか人間的すぎる形容ですが)かなり熱心に人間たちとコンタクトを取ろうとしていることが分かります。だからこそ「わっくん」は作り出されたわけですが。

 もちろんそれは人間と友好関係を結ぼうとか、殲滅しようとか、そういう分かりやすい人間的な価値観ではなくて、強いて言うなら、道端に落ちているちょっと変わった石に思わず足を止めてしまう感覚に近いかもしれない。たぶんフェアリーたちがどういう価値観で動いているかは三次元空間で生きる人間には絶対に理解できないだろうし、理解しようとするだけ無駄。ただ、「自分たちと違う世界がある」ことを認識し、その世界とコンタクトを取ろうする意思があることだけが双方の共通点。だからこそ、細々とながらもコンタクトは続いてきたのだといえます。

 残念ながら人間の中でフェアリーを認識できるのは、三次元空間になじみ切っていないごく一部の少年少女。したがって、フェアリーたちとしては少年少女たちを相手にコンタクトしていくしかない。好むと好まざるとにかかわらず、それしか選択肢はないのですから。「子供は無垢な心を無くしていないから」とかそういう安っぽい理屈ではありません。これは何度でも言います。別にコンタクトできる人間がえらいわけではない。しかし、コンタクトできる人間が限定されている以上、その一部の人々がかかわり続けるしかない。

 今回初めて須河原晶と遭遇した美玖。

「んー惜しい!」

 と、的確すぎる評価を下します。初放映当時は「何のこっちゃ」という感じだったのですが、シリーズ終了後の今になってみれば、その評価の正しさを実感するほかありません。確かに須河原はかなりいい線までフェアリーの実像に迫るのですが、肝心要なところで間違ってしまうのですから。

 一方、潮音と拓馬の恋のさやあてに巻き込まれた歩君と美紀は、食い違った形で鉢合わせ。二人とも災難でしたが、これでかえってお互いをちょっと意識するようになったかも。フェアリーとの遭遇すら恋の道具にしようとする潮音、横浜篇の理絵子を思わせるキャラですね。少し痛々しい。

 今回は、わっくんと歩君の「約束の指きり」が結末に置かれた、かなり重要な回。わっくんとコンタクトがとれなくなった歩君にメッセージを託すために、この世界とのもうひとつの接点である美玖がメッセンジャーとして使われるというわけ。

 フェアリーたちはわっくんを機械のように遠隔操作で操っているわけではなくて、あくまでわっくんは自律的に動く「人間モデル」。フェアリーたちは、周囲から観察することで、人間の行動原理や価値観を類推するしかない。データは多いにこしたことはないですからね。しかしわっくんはある程度人間の子供の価値観を持っているので、「さびしい」し「誰かと遊びたい」わけです。

 今回のわっくんとの「猫踊りの夜に遊ぼう」という約束は、極めて重い(それこそ破ったら身の破滅になりそうな)ものとして暗示されるわけですが、じゃあ、フェアリーたちの価値観では「約束」は重要なものなのかというと、たぶんそうではなくて。たぶん、異世界と契約するときは、破るとどういう結果が生まれるか分からないから守るにこしたことはない、という人間側の「畏れ」のようなものが含まれている気がします。このあたり、かなり人文的な解釈ですが。

 そして次回予告で連呼される「謎の御子柴さん」。タルト、INAFさんの同人誌を読むといいよ(笑)
posted by てんちょ at 20:23| 大阪 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | 絶対少年 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年01月10日

「こだわりの書SP/絶対少年」

 というわけで紹介させていただきましょう。唯一の「絶対少年」本。この冬コミ最大の収穫といってもいい、資料性も高い一冊です。何せ、ついに劇中では登場しなかった「御子柴さん」のキャラクターデザインが見られるのは本書だけ(笑・いや別にそこがウリってわけでは)設定資料もたくさん収録されています。
 大場打太氏主宰のアニメ研究サークル「INAF」の制作による一冊です。INAFとは、「いくつになってもアニメファン」の略称だそうで(笑)なるほどうまい。一発で名前覚えてしまいますもんねえ。この冬はどうも活字本に見るべきものが少なかった中で、実に健闘していたと思います。

 まず書影はこんな感じ。
INAF.JPG
 通販もやっておられるようですので、興味のある方は、HPをのぞいてみるとよいでしょう。
http://www15.big.jp/~daibada/inaf/

 最大の目玉はなんといっても望月監督のロングインタビュー。もともとINAFは望月監督のFCを母体にしているようなので、交流があったのでしょう(推測)。それにしても大場氏はどうやら九州在住らしいのに、どうやってインタビューをしたのか。なんと、二人ともある特定の時間にパソコンの前に張り付いて、質問と回答のメールをやりとりしたらしい。なるほど。これはネット時代ならではのやり方かもしれません。
 そのせいか、望月氏の回答は割と長めで理路整然としています。ふつう、直接しゃべってもらうと、こうはならないんですよねー。なるほど考えましたね。じゃあ我々が真下監督に同じ方法でインタビューできるか、といったら無理でしょうねえ。やっぱりよくわからないことしか書いてくれないような気がする(^^;これはクリエイターによって向き不向きがあって、ロジカルな人の方がしっくりくるスタイルでしょう。優れて感覚的にもみえる「絶対少年」ですが、どうやら望月監督は論理性の高い方のようですから。
 論理的にあいまいさを導き出す「絶対少年」のスタイルは、監督の直感によってのみ束ねられる「MADLAX」の方法論とは似ているようでいて正反対ってことでしょう。我々が「MADLAX」についての解釈をぶつけたとしても真下監督は「ふーん、そうなんだ面白いなあ」とにやにやしているだけだろうけど、望月監督は、大場氏の解釈をどちらかというと積極的に諌める姿勢をとります。

「『裏設定』というようなものは何もありません。映像になったものがすべて」

「MADLAX」は、真下監督の天然な禅問答を北山プロデューサーと黒田氏が解釈した結果生まれた「あいまい」であったのに対して、「絶対少年」は、望月・伊藤コンビのディスカッションに基づく一種の確信犯としての「あいまい」なのでしょう。ストーリーの肝心の部分では何を聞いても頑として答えてくれなかった望月監督に対して、大場氏としてはさぞ物足りない思いもしたと思いますが(同情します)、逆説的に望月監督の制作意図が浮かび上がってくる仕掛けになっており、読む側としては非常に興味深かったです。

 そして何よりうれしかったのが、一瀬さんの寄稿。アニメ誌などではほとんど取り上げられることのない色指定の作業過程が具体例を挙げて丁寧に解説されているのが興味深い。色指定はアニメ誌に寄稿することも少ないし、本当に久々に一瀬さんの文章を読ませていただきました。(私信メールは別だけど・笑)いや、本当に懐かしく、うれしかった。お姉さま、我々とアニメ同人やってたころと文体が変わってないですね〜。
「新人の原画マンとそれなりのキャリアのおっかない仕上げのお姉さん」
と低姿勢な制作さんとのやり取りを自ら冗談交じりに取り上げていらっしゃいますが、それはつまり、10年前の我々ガキがお姉さまに説教されていた構図とほぼ同じなんですが(笑)当時説教されたことが、最近胸に迫って実感したり(遅すぎ)しております。当時はご迷惑をおかけいたしました。生意気盛りのガキのはねっかえりとお許しくださいませ。一瀬さん、今もやっぱり「颯爽たるお姉さま」なんだなあ。

 あと、この本には大場氏の各話分析とゲスト評2本が収録されています。ゲスト評はどちらもオーソドックスな印象批評。大場氏の各話評は、技術論・スタッフ論が中心で、ストーリーの謎に踏み込んだものではありません。そのあたり、解読を期待する層からは不満もあるかもしれませんが、監督インタビューをふまえ、客観に徹したということなのでしょう。
 個人的には、大場氏のフェアリーに関する考えをもう少し聞きたかったという気がします。そのあたり、ぜひ次回は増補版・補強版を期待したいところ。
posted by てんちょ at 18:44| 大阪 ☀| Comment(2) | TrackBack(0) | 絶対少年 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年01月07日

絶対少年第6話(2周目)「脳は欠落を勝手に埋めてしまうこと」

 いっちょまえに一週だけ正月休みをいただいて、今回から再開いたします。いやまあ、コミケがあったから仕方ないんですが。ご容赦を。

 本日、冬コミで「絶対少年」本を刊行しておられたINAF代表の大場打太さんから紹介OKのメールをいただきました。いや、ただの評論ですから。別に勝手にやっても特に問題はないんですが、ちゃんと挨拶しておきたかったんですね。割と好意的に受け止めていただけたようでうれしいかぎりです。稿を改めて取り上げますが、まずはご報告まで。

 さて、2周目もはや第6回。まわりまわって、厳冬に真夏の話を見ております。本放送では横浜編の冬の描写に妙な気分になったものですが、2周目の横浜編にさしかかるころには、冬も終わってしまうんですかねー(^^;

 あ、そうそう横浜といえば。前回のエピソードで書き忘れていたんですが、須河原が車を走らせている最中に、「横浜で人魂騒ぎ」とラジオのDJがしゃべってます。しっかり携帯レコーダーで記録してる須河原。うーむ、こんな早い段階から横浜篇の伏線張ってたんですねー須河原は結局あまり好きになれなかったキャラですが、ジャーナリストとしてのアンテナの優秀さは認めないわけにはいかない。

 それで今回は、フェアリーの活動に従って発生する電磁波障害を中心としたエピソード。基本的には横浜篇と同じなのだけど、人口が少ないと、こんなにも影響が少ないかと拍子抜けします。横浜篇の重大な影響と比較してみれば、フェアリーが人間の論理とまったく関係ないところで動いていることははっきりします。別に人間に害を及ぼすことなんか考えてもいないんですよね。もっと言えば「考える」という生物的な活動も的確かどうかすら疑問ですが。

 ただ、異なるものが接触したとき、何かが起きる。それは気づく者もいるし気づかないものもいる。別に気付くものが優秀というわけではないけど、
「気付いてしまったのならかかわり抜くべき」
なのでしょう。平五郎さんの名セリフ、このエピソードで登場します。

 そして、今回注目したいのが潮音のエピソード。歩君なんかと違って、潮音はフェアリーなんぞにはカケラも興味なさそうですが…拓馬に強引にキスして冷たくあしらわれ、タルトを抱えて泣きながら帰る途中で、フェアリーに遭遇している。自分の肉眼では光の球にしか見えず、タルトの眼球に映ったフェアリーの姿を見て衝撃を受けるわけです。

 要するに、フェアリーは見ようと思って見れるものではない。目をこらし注意を払っても知覚するのは無理で、むしろぼんやりしたり何か辛いことがあって注意力が散漫になっている時の方が発見しやすい。

 これはいったいどういうことか。再び、山口真美著「視覚世界の謎に迫る」(講談社ブルーバックス)をひもといてみましょう。

 人間の眼は、いくつも「盲点」を持っています。「盲点を突かれる」のあの盲点とは違って、文字通り何も見ることのできない領域が多数存在します。この本の中では、その盲点の位置を簡単に見つけ出すことのできる簡易テストも紹介されているのですが、このテストからはっきりとわかることは、視覚の不確かさにほかなりません。盲点がいくつもあるからといって、人間の視界が穴だらけになることはない。ではなぜ視界はなめらかな映像として見えるのかというと、欠落した情報を、脳が勝手に補ってしまうからです。だから、実際は知覚できていないのに、脳が勝手に情報を補うために、知覚できていないことにすら気付かないケースが出てくるわけです。
 
 つまり脳が快適で順調に動いているとき、三次元空間を見るための機能が健全に働いているときほど、その外側に存在するフェアリーを捕捉するのは非常に難しくなる。それよりは精神が不安定で焦点が定まらない時の方が、実は「何か不自然なものがある」と認識できてしまうことになる。もちろん、人間がどんな精神状態にあろうが、フェアリーにとっては知ったことではないのですけどね。
posted by てんちょ at 22:30| 大阪 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | 絶対少年 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年12月27日

絶対少年第5話(2周目)「脳は視覚を学習すること」

 山口真美著「視覚世界の謎に迫る」(講談社ブルーバックス)を読了。先月刊行されたばかりのピカピカの新刊ですが、まさしくこのアニメのために書かれたような科学書で、一般にもとてもわかりやすくお勧めの一冊です。

 まあ、個人的にはかなり知っている事柄も多かったのですが、初心者向けに身近な部分からひとつずつ丁寧に解説してくれているので、読んでいて混乱することはまずないかと思います。200ページほどと薄く図版も豊富。早くこういう本が欲しかった。

 で、この本がわかりやすいのは、乳幼児を対象にした視覚実験を中心に「人間の視覚がどのように発達していくか」を考察しているから。これは、我々素人でも直感的に理解しやすいですよね。我々が何げなく見ているこの光景、3次元空間を把握するためには、実はかなりの修練が必要であるらしい。人間のものを見る能力というのは、生得的に備わっているものではなくて、言葉や歩き方を覚えるように、周囲の環境の影響を受けながら、少しずつ会得していかなければならないようなのです。

 生まれながらに目が見えない人が、手術を経てようやく視力を取り戻したとしても、ほとんどの場合、

「ただまぶしい光が見えるだけ」

 ということが多いそうです。つまり、映画なんかでよくある、薄幸の盲目少女が、恋する青年医師の手術で目が見えるようになって…とかいうシチュエイションでも、包帯を取った瞬間に彼氏の顔が目に飛び込んでくる、などという劇的な事態は起きないわけです。

 ある程度のリハビリを費やせば、徐々に見えるようになっていくそうですが、それでも大人に近くなればなるほど、健常者と同じように見ることは難しいようです。

 形を見分けること、動きを認識すること、奥行きを把握すること、人の差異を区別することなどなど、我々が何げなく行っている「見る」という行為を習得するのはいくつものハードルが存在します。そして、実際に大人と同じように「見える」ようになるのは、実は我々が考えているよりもずっと遅くて、小学校入学前後。それも、現在の科学で把握出来ている範囲内だけで、です。より微細な領域では、さらに時間がかかることも十分に考えられます。

 眼があれば見えるわけではない。あくまで見ているのは脳。

 だから、ですよ。少年少女が主人公であることは、視覚的領域から見ても必然であるわけです。このアニメの場合。
 前々回でも触れた通り、美玖はモロに「視覚発達期」にフェアリーの世界で一時期を過ごしているわけだから、その影響を受けるのは当然。そしてそれより上の世代の中高生たちも、大人とは違う世界の認識をしている可能性がある。だとすれば、フェアリーを認識しやすいのは当然のこと。脳の空間認識方法が、3次元に特化し切っていないわけだから。4次元以上の存在を認識する可能性はある。これまで繰り返し述べてきた通り、どう見えるかは、人によって様々ではあるけど。

 もちろんフェアリーが見えることは偉いことでも何でもなくて、ただ見えてしまった以上は関わるしか仕方がない。常に忘れてはいけないのは科学的思考の大切さ。反オカルト的姿勢を貫き続けたこの作品は、やっぱりすごいと思います。

 とかいう科学的な話も徐々に表舞台に出てきておりますが。この第5話を改めて見て感じたのが歩君の「いい奴」ぶり。確かに無愛想に見えるけれど、マジメすぎて「どう対応すればいいのか」わからず途方に暮れている印象。外部との扉をほぼ閉ざしてしまっている希紗と違って、あくまで「まっすぐで誠実な少年」なんですね。それはちょっと見ていればわかる。だから、周囲の大人たちも割と温かく見守っているんでしょうか。

 豪雨の中、自転車で飛び出してでもわっくんとの約束を何とか守ろうと必死になるあたりもそうだし、今までに起きたことをメモにまとめて整理しようとするあたりもそう。本当にマジメでいい子です。

 「…おまえ、なかなかいいやつだな」
 と美玖にしみじみ言われると、これはこれでおかしいんだけど(^^;
posted by てんちょ at 23:13| 大阪 ☀| Comment(0) | TrackBack(1) | 絶対少年 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする