2014年11月20日

黒澤明映画祭「生きる」

 大阪・シネヌーヴォの社運を賭けた大企画「黒澤明映画祭」。結構なお金を投じて2か月にわたる大興業だそうです。もちろん黒澤が35ミリで見られるというのは、京都文化博物館とフィルムセンターを除けばこれが最後になるだろうし、極めて貴重な機会であることは言うまでもないのですが、私はすでに大半の作品をフィルムで見てしまっているので残るは「生きる」「乱」「夢」ぐらい。

 というわけで見てきましたよ。どれだけ混んでるかと戦々恐々としていたら、入場30人ぐらい。うーん大丈夫かな…



 たぶん見るのは20年以上ぶりなんですが、ストーリーを細部まではっきり覚えていたのには驚きました。やっぱ、そういうクリアさは黒澤の魅力ですよね。小津の映画を細部まで語れと言われたらたぶん無理ですもん。ただ、このテーマで150分というのは現在ではあり得ないし、当時の黒澤作品としてもかなりの異色作だったんだなと再見して思いました。

 結構セリフでベラベラと設定をしゃべってしまうのが黒澤映画の悪いところで、だからこそだれにでもすっきりわかるから人気があるのだけど、いっぱしの映画通を気取るようになるとみんな自己ベストの中から黒澤映画を排除したくなるというのはそこなんでしょうね。私も今のところほとんど入れてない。たまに気まぐれで「用心棒」を入れるかどうか。

 やっぱ映像で語ってこそ、とか思うじゃないですか。

 そういう意味で言うと、これは黒澤映画としてはまったくの異色作で、意外なぐらいセリフが少なく、人物のアップと無言の形相が延々と映されるシーンがかなり多用されています。そして、セリフを排しているからこそ、この膨大な尺数が必要とされたこともよくわかる。

 後半の葬儀シーンでの、最初は建前ばかり語っていた出席者たちが、酔いがまわるにつれて「そういえば」と本音を語り始めるシーンの巧みさなどは手の内をよく知った今の方が「なるほどうまい」と感心してしまいます。いかにも通夜の席で話されそうな無駄話・思い出話でしかないはずなのに、主人公の行動がありありと見えてきてしまうという。

 そして、実際には渡辺氏のような英雄的地方公務員はほとんど現れず、陳情に来たおばちゃんたちがその後市民運動を組織して世の中を変えていくことになるのだよな、とこうして見返してみると感慨深いものがありました。そして公務員って今もぜんぜん変わってない(笑)そういう意味では今も見られるべき作品。

 さて、とはいえその後の黒澤作品はずっと著述的になっていってしまい、これがカラー化に際して巨匠を苦しめることになります。色がノイズになってしまうのですよ。黒澤映画では。そのあたりの話はまた「乱」の折にでも。世評と違って、私は結構この作品好きなんですが、フィルムで見るとさてどうなるか…
 
posted by てんちょ at 03:15| 大阪 | Comment(0) | TrackBack(0) | 映画 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
コメントを書く
お名前:

メールアドレス:

ホームページアドレス:

コメント:


この記事へのトラックバック