2005年02月18日

文系的評論と理系的評論

 昨日は、ミスでアップがズレこんでしまったので、こちらが真の18日ぶんの書き込み。ややこしくってすいません。

 「マドラックス」を契機に理系的世界にハマってしまい、文献を読みあさるわ、数学の再勉強を始めるわ、熱暴走状態が続いておりますが、本来は私もれっきとした文系人間。まさかアニメ1本でここまですることになるとは…おそるべし真下耕一。

 仮説を立てて証拠を探し、作品を分析していくという理系的評論スタイルは、いつもうまくいくとはかぎりません。ヘタするとトンデモな陰謀論に迷い込みかねないし。常に「遊びですから」と自分にブレーキをかけてるのは、そういう次第。真下演出とは非常に相性がよいようですが、「マドラックス」ほど大きな「発見」は初めてのことで、この作品の特異性がうかがえますね。現在私が展開している「量子論仮説」は、あいまいさに満ちたこの作品をくっきりと明快にする特徴を持っています。結果として作品の表層ではほとんど量子論は語られていないのですから、真下の演出意図と量子論がイコールではないこともまた確かですが、この作品が量子論と何らかの関わりを持っていることは、大半の方に納得していただけると思います。おそらくは、この重層的な作品の基礎を支える重要な土台の一部であるとは言えるのではないでしょうか。

 本来、一般的に見られる「文系的評論」の世界では、「このシーンはこういう意味ではないか」とか仮説を述べたところで読者に「いや、そうは思わない」と言われればそれまでのことです。「マドラックス」について、私も初期には「鈴木清順の影響がうかがえる」などと言ってますが、これは典型的な文系的評論ですね。読者がそう思わなければそれだけのこと。

 ところが、この文系的評論に徹して、なおかつ説得力を持ち意味のある内容の評論を続けている人がいます。この日記の発足時に触れたみやびあきら氏。毎日アップされる膨大な評論には圧倒されるばかりです。なぜみやび氏の評論が有効に働いているのかは、私も完全には把握し切れていないのですが、ひとつにはみやび氏が個人的な視点で作品を見つめ続けていること、そして個人的な世界と作品を結びつけることによって、何ものかを生みだそうとしていることが挙げられるでしょう。「おもしろい」「つまんねー」の二分法で、ただひたすら無為に消費することにしか関心のない不毛なネット評が多い中で、どれだけこれが稀有な存在かは、言うまでもありますまい。未見の方はぜひ一度のぞいてみることをお勧めします。最近のものだけでなく、ぜひ過去ログもチェックしてください。本当、圧倒されるから。
posted by てんちょ at 17:36| 大阪 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | MADLAX | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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